項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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銀行(都市銀行) | 東洋信託銀行 | 1973年(S48) | * 1973年(S48)10月8日、東洋信託銀行仙台支店が東五番丁・名掛丁角に新築移転 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P23 | |
銀行(都市銀行) | 太陽神戸銀行 | 1978年(S53) | * 1978年(S53)5月8日、太陽神戸銀行仙台支店開設 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P81 | |
銀行(都市銀行) | 東海銀行 | 1978年(S53) | * 1978年(S53)11月14日、東海銀行仙台支店開設 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P88 | |
銀行(地域の銀行) | 銀行一覧(明治34年時点/昭和10年時点) | 1901(M34)/1935年(S10) |
(1) 明治34年時点の仙台の銀行(仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図の裏面より) いずれも株式会社 ・ 七十七銀行(大町1丁目33) ・ 宮城商業銀行(大町3丁目31) ・ 仙台銀行(大町2丁目) ・ 宮城貯蓄銀行(大町3丁目20) ・ 国民貯蓄銀行(大町5丁目) ・ 宮城銀行(大町4丁目10) ・ 通商貯蓄銀行(名掛丁) ・ 仙台貯蓄銀行(大町2丁目) (2) 昭和9年度末の仙台の銀行(「仙台市大観」P19~20) 地名は本店所在地、数字は支店及び出張所数 <地元4行> ・ 七十七銀行(大町 / 84) ・ 宮城銀行(元寺小路 / 6) ・ 東北貯蓄銀行(大町 / 4) ・ 宮城県農工銀行(東二番丁 / 1) <県外銀行の支店> ・ 安田銀行仙台支店(大町) ・ 常磐銀行仙台支店(元寺小路) ・ 安田貯蓄銀行仙台支店(大町) ・ 不動貯蓄銀行仙台支店(東二番丁) (3) 昭和11年時点(「仙台の産業と観光」P22) ・地元銀行、県外銀行の支店とも、昭和10年と全く同じ ただし、常磐銀行は常陽銀行と記載されている |
仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図~ / 「仙台市大観」(昭和10年刊)P19~20 / 「仙台の産業と観光」(仙台市役所 昭和11年刊)P22 | |
銀行(地域の銀行) | 七十七銀行 | → 内容は、項目「七十七銀行」参照 | |||
銀行(地域の銀行) | 仙台銀行(明治年間) | 1892年(M25)~1901年(M34) |
* 1892年(M25)、仙台銀行設立 * 1901年(M34)6月28日、仙台銀行破綻 / 平成の仙台銀行とは関連なし |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P91 | |
銀行(地域の銀行) | 仙台貯蓄銀行 | 1893年(M26)~1901年(M34) |
* 1893年(M26)3月4日、仙台貯蓄銀行開業 * 1901年(M34)6月28日、破綻 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P88、P91 | |
銀行(地域の銀行) | 宮城商業銀行 | 1897年(M30) |
* 1897年(M30)4月27日、株式会社宮城商業銀行、仙台に設立 / 資本金5万円、頭取は佐和正(「重訂 宮城県郷土史年表」P308) * 1897年(M30)7月1日、宮城商業銀行、開業(「仙台市史 年表」P90) * 1898年(M31)2月21日、頭取に手島雄八郎就任 * 1912年(M45)2月29日、仙台市の金庫事務取扱銀行指定 第一本金庫(東北実業銀行)、第二本金庫(宮城商業銀行)、第三本金庫(七十七銀行)(「重訂 宮城県郷土史年表」P351) * 1912年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409) |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P308、P311、P351、P409/「仙台市史 年表」P90 | 「新・目で見る仙台の歴史」P132 |
銀行(地域の銀行) | 宮城県農工銀行 | 1898年(M31) |
* 1898年(M31)4月1日、宮城県農工銀行、設立認可 / 東二番丁に開設(木造下見板張りの洋風建築) * 1898年(M31)4月10日、宮城県農工銀行を創設し、4月より東三番丁に開業す(初代頭取遠藤温 / 不動産を担保とする農・工・商及び養蚕業の金融機関) * 1898年(M31)、東二番丁に設立 / 政府の施策により中小規模の農家や商工業の振興を目指したが、地主・富商金融に重点が移った(「新・目で見る仙台の歴史」P132) |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P90/「目で見る仙台の歴史」P136/「重訂 宮城県郷土史年表」P311/「新・目で見る仙台の歴史」P132 | 「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132 |
銀行(地域の銀行) | 宮城商業貯蓄銀行 | 1899年(M32) | * 1899年(M32)3月、宮城商業貯蓄銀行、開業 | 「仙台市史 年表」P90 | |
銀行(地域の銀行) | 国民貯蓄銀行 | 1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、国民貯蓄銀行、開業 * 1905年(M38)、国民貯蓄銀行、解散 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350 | |
銀行(地域の銀行) | 通商貯蓄銀行 | 1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、通商貯蓄銀行、開業 * 1905年(M38)、通商貯蓄銀行、休業 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350 | |
銀行(地域の銀行) | 松良銀行 | 1900年(M33) | * 1900年(M33)7月4日、松良銀行、合議会社で開業(東四番丁) / 木造2階建て下見板張りの洋風建築 / 松良盤植による個人銀行 / 夫人みつと共に常盤木学園高等女学校も創立した | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P91/「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132 | 「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132 |
銀行(地域の銀行) | 東北実業銀行 | 1910年(M43)~1932年(S7) |
* 1910年(M43)6月15日、東北実業銀行が涌谷町で開業 * 1911年(M44)2月11日、本店を仙台市名掛丁に移転 * 1918年(T7)、名掛丁に竣工(秋保石積の荘重なルネッサンス風) * 1932年(S7)1月31日、五城銀行と共に、七十七銀行と合併 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P346、P348、P429/「宮城県百科事典」P750/「仙台市史 年表」P95、P106/「目で見る仙台の歴史」P151 | 33-05/「目で見る仙台の歴史」P151(大正7年竣工の社屋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138(社屋) |
銀行(地域の銀行) | 宮城貯蓄銀行/五城銀行/東北貯蓄銀行 | 1893年(M26)~1932年(S7) |
* 1893年(M26)、第七十七国立銀行が、銀行条例の改正により、貯蓄預金取り扱いのため、宮城貯蓄銀行を大町1丁目に開業(「新・目で見る仙台の歴史」P132) * 1893年(M26)、宮城貯蓄銀行を仙台市大町二丁目に創立 * 1901年(M34)、株式会社宮城貯蓄、同仙台貯蓄両銀行倒産 * 1902年(M35)、仙台貯蓄、通商貯蓄、国民貯蓄の各銀行解散 * 1908年(M41)、宮城貯蓄銀行に取付あり ************************************ * 1921年(T10)11月、宮城貯蓄銀行が、普通銀行に改組し、商号を五城銀行と改称(貯蓄銀行業務は新設の宮城貯蓄銀行に譲渡) (「仙台市史 年表」P100、「重訂 宮城県郷土史年表」P382、「新・目で見る仙台の歴史」P132) * T12年3月26日、五城銀行(頭取、伊沢平左衛門) が、第八銀行(大正3年12月国分町に創設、頭取山田久右衛門)と塩釜銀行を合併(頭取、伊沢平左衛門)( 「仙台市史 年表」P101) * 1932年(S7)2月1日、七十七銀行が、五城銀行と東北実業銀行を合併 * 1934年(S9)1月20日、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行とが合併、東北貯蓄銀行を大町五丁目に設立(「仙台市史 年表」P107、「重訂 宮城県郷土史年表」P439) * 1945年(S20)5月1日、七十七銀行が東北貯蓄銀行を買収(「重訂 宮城県郷土史年表」P504) |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P294、P323、P326、P342、P382、P387、P439、P504/「新・目で見る仙台の歴史」P132/「仙台市史 年表」P100、P101、P107/「仙台年表」P203 | 「新・目で見る仙台の歴史」P132 |
銀行(地域の銀行) | 東北貯蓄銀行 | 1934年(S9)~1945年(S20) |
* 1934年(S9)1月20日、東北貯蓄銀行は、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行が合併し、(旧)大町五丁目に設立された(東北実業貯蓄銀行はT4年に本店を志田郡古川町から仙台市に移転) * 1945年(S20)4月10日、東北貯蓄銀行、七十七銀行へ営業譲渡契約書に調印、一県一行体制が完成 |
「仙台市史10 年表」P282、P309/「仙台市史 年表」P107、P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P439、P504 | 東北貯蓄銀行の仙台七夕飾り物「貯蓄校」は20-53、同「東北振興丸」は、83-04 |
銀行(地域の銀行) | 三徳無尽/徳陽相互銀行/德陽シティ銀行 | 1942年(S17)/1951年(S26)~1998年(H10) |
* 1942年(S17)4月1日、 宮城無尽・太陽無尽・東北無尽の三社が合併し、「三徳無尽」として設立 * 1951年(S26)10月20日、三徳無尽株式会社が改組、徳陽相互銀行に商号変更 * 1982年(S57)5月24日、一番丁支店オープン <以下、Wikipedia「徳陽シティ銀行」より> * 1990年(H2)8月、 第二地方銀行となる / 商号を「株式会社德陽シティ銀行」に変更 * 1994年(H6)3月、「1995年をもって、北日本銀行および殖産銀行と合併し、新名称を『平成銀行』とする」と発表したが、後に徳陽シティ銀行の財務内容がネックとなり、破談となる * 1997年(H9)11月26日、経営破綻 / 仙台銀行、七十七銀行、北日本銀行などに営業譲渡を決定 1998年(H10)11月16日、 営業を終了 |
「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P552/「続・ 宮城県郷土史年表」P146/Wikipedia「徳陽シティ銀行」(2020年10月22日版) | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P742(徳陽相互銀行) |
銀行(地域の銀行) | 振興相互銀行/仙台銀行(平成時代) | 1952年(S27)/1989年(H1) |
* 1951年(S26)、振興無尽株式会社創業 * 1952年(S27)5月29日、振興無尽株式会社が振興相互銀行と改称 * 1970年(S45)5月、本店を青葉通りに新築移転 * 1989年(H1)2月1日、振興相互銀行が普通銀行に転換し、仙台銀行と改称 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705、P755/「仙台市史 年表」P117、P135 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P755(青葉通りに進出した振興相互銀行本店、S44年5月) |
銀行(地域の銀行) | 青和銀行/みちのく銀行 | 1974年(S49)/1976年(S51) |
* 1974年(S49)12月9日、青和銀行仙台支店開店 * 1976年(S51)10月、みちのく銀行と改称 |
「続・ 宮城県郷土史年表」P35 | |
銀行(地域の銀行) | 宮城県労働金庫/東北労働金庫 | 1951年(S26)/2003年(H15) |
* 1951年(S26)12月8日、宮城県労働金庫創設(<編者注>宮城労働金庫が正しい) * 2003年(H15)10月1日 - 東北6労働金庫が合併し、「東北労働金庫」を設立(Wikipedia「東北労働金庫」より) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P553/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368 | |
針久旅館支店(仙台駅前) | 開業 | 1887年(M20) |
場所は、仙台駅前広場の北側に面する * 1868年(M元年)、国分町に旅館開業 * 1882年(M15)、針久旅館と改称 * 1887年(M20)、仙台駅開業の年に二代目久助が東北本線(日本鉄道)仙台駅前に支店を開設 その後、三代目久助が東五番丁に千坪の別館を建て、東京にも神田と上野、築地の3つの支店を開業した |
「仙台老舗百店史P182~189『針久旅館』 | 61-18/53-88の右端建物/06-23の上部(陸奥ホテルの左隣の建物)/「目で見る仙台の歴史」P155に、国分町の針久旅館 |
釜房湖(ダム) | 給水開始 | 1970年(S45) |
釜房ダムは貯水量4500万トン、仙台市と周辺市町村に飲料水1日20万トンと工業用水10万トン供給、洪水調節、発電などの多目的ダム * 1966年(S41)、釜房ダム建設開始 * 1970年(S45)7月10日、川崎町の釜房ダム、給水開始 * 1973年(S48)12月、釜房湖畔に、レジャーランドのバリハイセンターがオープン * 1976年(S51)6月22日、湖畔に「鎮魂の碑」除幕 * 1978年(S53)10月15日、釜房湖畔公園誕生 * 1984年(S59)9月15日、湖畔で国営公園起工式 |
「市民の戦後史(仙台市)」P219/「重訂 宮城県郷土史年表」P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P86、P181 | 「市民の戦後史(仙台市)」P219(工事現場俯瞰、導水路トンネル) |
金属回収 | 開始 | 1939年(S14) |
* 1939年(S14)2月16日、商工省、鉄製不急品の回収開始 * 1939年(S14)4月7日、宮城県内で金の提出運動始まる(各家庭は7月5日までに保有内容を申告) * 1940年(S15)、米国などが、鉄くずや銅鉱石の日本向け輸出禁止 * 1941年(S16)9月1日、金属類回収令により金属回収開始 <仙台市では> * 1941年(S16)10月1日(興亜奉公日)、仙台市では「戦争物資動員の日」と定め、回収強化 / 家庭の門扉、欄干、手すり、鉄瓶、傘立て、火鉢、洗面器、置物、花器、文房類まで回収 * 1942年(S17)1月20日、仙台市で一般家庭金属類特別回収(第2回特別回収、買上げ班が各戸を回り買上げ伝票に記入、財団法人・戦時物資活用協会が買上げ) 「1月20日、公会役員や中学生が14班に分かれて荷車やリヤカーに「金属特別回収訪問班」と書いた小旗を立てて各家庭をまわり供出を呼びかけました。 床の間の花瓶、仏壇に供えてあった花立て、大鍋、青銅の火鉢、傘立てなどの金属が提供されました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117) * 1942年(S17)5月12日、工場、会社、商店、旅館、寺院などから金属回収が始まる(菅家年表) * 1942年(S17)11月16日、ニッケル、銅貨も回収(10銭と5銭ニッケル貨、白銅貨)(菅家年表) * 1942年(S17)11月~1943年(S18)2月、火の見櫓や家庭必需品を除く一切の銅鉄製品を回収 * 1943年(S18)8月、勅令改正で強化された ・「1943年8月、「金属類非常回収実施要領」が閣議決定され回収はより強化。 鉄製品では、門扉、鉄製ベッド、物干し、ストーブ、ロッカーなど、銅製品では新聞受け、シャンデリア、洗面機などが加えられ、公共物ではマンホール、交通標識、橋の欄干など。 仙台市立病院は昭和14年に鉄筋5階建てのビルに改修し、170台のベッドを購入したばかりでしたがこれも供出され木製に、片平の東北帝大キャンパスの周りを取り囲んでいた鉄製欄干もやはり木造に変わりました。 回収方法はよりシステム化され、隣組ごと日程を組み、会場では公会役員立ち合いのもと、買上げ者が物品を鑑定して値段をつけていきました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117~118) * 1944年(S19)3月、仙台市電「芭蕉の辻線」のレールを回収 * 1944年(S19)9月15日、白金の強制買い上げ * 1944年(S19)9月25日、銀の買上げ(まず、東京から始まる) * 1944年(S19)、松島町字高城の松島橋、金属回収のため解体 * 1945年(S20)10月22日、金属回収令廃止 写真16-57と16-69は、金属回収で店の看板がなくなった仙台駅前 |
仙台市での金属回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P25~27に記述あり 岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台年表」P209、P214/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28~29/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P117~118 |
16-71、16-57、16-69/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)/同P462(東裏丁公会の供出の様子、昭和17年) |
金属回収 | 街灯 | 1942年(S17) | * 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26 | |
金属回収 | 寺院の梵鐘など | 1942年(S17) |
* 1942年(S17)11月6日、大年寺の名鐘、白銀混鋳の「開静鐘」など(仙台市内の)各寺院神社等の撞鐘をはじめ金属製の調度品(国宝級のものを除く)を戦時資材として回収開始(“応召”より除かれた三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺) * 1942年(S17)11月12日、各寺院より“応召”した梵鐘の壮行供養会を東一番丁の西本願寺に於いて挙行 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/「重訂 宮城県郷土史年表」P493/「仙台年表」P214 | 「目で見る仙台の歴史」P168(各寺院供出物の山) |
金属回収 | 銅像「壮行式」 | 1943年(S18) |
* 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出 元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112 | |
金属回収 | 軍馬銅像 | 1943年(S18)か1944年(S19) |
* 1943年(S18)か1944年(S19)、桜ケ岡公園(西公園)にあった軍馬の銅像「日露役殉死軍馬銅像」が、S18年か19年に供出された ・ 戦後しばらくは台座のみが残っていた |
99-120、53-63 | |
金属回収 | 政宗卿騎馬像 | 1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、仙台城跡(天守台)の伊達政宗銅像(騎馬像)の金属供出「出陣式」が行われる 「青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も、金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及び護国神社共同主催のもとに、県下青年団代表参集して盛大なる銅像出陣壮行式を挙行す。この折、詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」(重訂 宮城県郷土史年表) |
「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500 | |
金属回収 | 市電レール | 1944年(S19) | * 1944年(S19)3月、市電芭蕉の辻線が廃止となり、レールを剥がして、戦時金属回収のため供出 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P92 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール) |
金属回収 | 伊達安芸銅像 | 1944年(S19) | * 1944年(S19)5月27日、松島瑞巌寺境内の伊達安芸の銅像、金属回収に応召出陣となり「壮行式」 | 「重訂 宮城県郷土史年表」P308 | |
金富士(料理店) | 開店~閉店 | 1930年(S5)~1971年(S46) |
玉澤横丁にあった、西洋料理と中華料理の店 ・戦前、「銀のスプーンで」食べるカレーライスが人気だった ・「崑崙(こんろん)山」と名付けた庭で有名だった / <崑崙山(息女の石井直子さん談)> 「この庭は、初代の経営者石井金三朗が全国を回って集めた天然石で築造、昭和初期に1000円もした高価な石も使われた。 庭の地下に水槽をつくり電動ポンプで水をくみ上げた滝もあった。庭にある鳥居も石で出来ていた。帽子をかぶった人が腰かけているのうな石もあった。トイレにも自然石が使われていた。土井晩翠が詩に詠んだほどの名所だった。」 * 1930年(S5)開店(玉沢横丁) * 仙台空襲(S20年7月)で焼失 * 1948年(S23)、再建し1971年(S46)まで営業した 【「仙台年表」P201】「昭和5年、仙台国分町の金富士寿司経営者、石井金三郎氏、石崑崙を築く。面積260平方尺、高さ20尺、集石に5年、築造に1年、大小の石は北海道アイヌから九州迄に及び10万円を費やす」 |
金富士の家族談/仙台年表P201 | 戦前は98-110、71-01、71-02、71-03、71-04、71-05、71-06、戦後は71-07、71-08、71-09、201-43 |
金の星(カフェ) | 焼失 | 1941年(S16) |
・ 昭和初期、東一番丁の三越やや南にあった「金の星」は仙台一のカフェといわれた ・ 東久邇宮稔彦王殿下も第二師団長時代に通った伝えられる ・ 女給たちで結成した「金の星楽団」もあり、日中戦争では兵士慰問のため中国大陸に派遣された(「番丁詳伝」P111) * 1936年(S11)、河北新報主催「麗人同乗のシボレー県下南北早回り競争には、紅組「金の星」の玲子とミチル、白組「エー・ワン」(国分町)のすみ子とたき子が同乗・・・」(河北新報、昭和41年「東一番丁企画シリーズ」より) 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみに、金の星楽団につき記述あり * 1941年(S16)、焼失 (その跡地で印舗の錦章堂が営業) |
「番丁詳伝」P111/焼失年は、東一番丁の錦章堂主人談 | 22-53、98-110、47-06、53-34、20-57、44-76 |
野草園 | 開園 | 1954年(S29) |
* 1954年(S29)7月21日、開園(面積3.4ha) / 仙台市営 / 大年寺山の一隅19,620坪を20ブロックに分かち、東北地方などに自生している600数種に及ぶ野草を各適地に植栽 * 1976年(S51)9月、野草園で、大賀ハス開花 * 1983年(S58)4月29日、野草園で「杜と彫刻の風の音」除幕 * 1989年(H1)7月21日、佐藤よしの依頼で彫刻家鈴木政夫制作による花地蔵安置 * 1989年(H1)9月14日、萩にちなんだ石の彫刻「萩の守」を除幕 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P368/絵葉書99-127の説明文/「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P261、P262 | 99-127/「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P78/「新・目で見る仙台の歴史」P192/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(S38、カラー) |
野球場 | 東北体育協会球場 | 1923年(T12) | * 1923年(T12)5月27日、榴ヶ岡下に木造観覧席を備えた東北体育協会球場が開場(「仙台あのころこのころ八十八年」P69にダラ(糞尿)撒き騒動のエピソード記載) | 「仙台市史 年表」P101/「仙台あのころこのころ八十八年」P69 | |
野球場 | スポーツマン球場 | 1929年(S4)~1933年(S8) |
* 1929年(S4)6月、杉村多利治氏(のちの日乃出映画劇場社長)が国分寺薬師堂北隣につくる / ライトの塀外は薬師堂の杉木立でファンは木に登って見物した * 1929年(S4)6月(7月)、スポーツマン球場設立(宮城野原南部、国分寺薬師堂北隣) * 1933年(S8)、廃止 |
「仙台市史 年表」P105/「重訂 宮城県郷土史年表」P416/「仙台あのころこのころ八十八年」P70 | |
野球場 | 八木山球場 | 1929年(S4) | → 項目「八木山球場」参照 | ||
野球場 | 澱橋野球場 | 1930年(S5) |
* 1930年(S5)10月、澱橋野球場開設(角五郎町、澱橋わき) * 1940年(S15)5月5日、澱橋総合運動場竣工、落成式 * 澱運動場は、戦後一時、米軍(進駐軍)が接収 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P422/「仙台市史10 年表」P298/「仙台年表」P210/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328/「仙台あのころこのころ八十八年」P246、P248 | |
野球場 | 昭和11年現在 | 昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場 | 「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73 | ||
野球場 | 東北大学評定河原球場 | 1937年(S12) |
* 1937年(S12)、早川牧場跡に東北帝国大学のトラックと野球場が完成(佐々久「近代みやぎの歩み」P86) * 1976年(S51)4月1日、東北大学評定河原球場を市民に開放 |
佐々久「近代みやぎの歩み」P86/「続・ 宮城県郷土史年表」P53 | 「いつか見た街・人・暮らし」P38(早川牧場、大正5年) |
野球場 | 県営宮城野球場(宮城球場) | 1950年(S25) | → 項目「県営宮城野球場(宮城球場)」参照 | ||
釈迦堂 | 建立 | 1695年(元禄8年)/1968年(S43)移転 |
藩政時代(元禄8年)、伊達藩四代藩主伊達綱村が生母の冥福を祈るために建立した持仏堂 * 1948年(S23)7月、戦時供出された鐘が戻る * 1968年(S43)、宮城県図書館建設のため、榴ケ岡4丁目の孝勝寺本堂脇に移された(「重訂 宮城県郷土史年表」P675では、「昭和46年に移転復元」) |
仙台市のHP/「市民の戦後史(仙台市)」P38/「重訂 宮城県郷土史年表」P675 | 99-134、14-05/位置図は98-078/「目で見る仙台の歴史」P63(釈迦堂、二天門)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年に戻った鐘) |
都市型CATV | 仙台に登場 | 1989年(H1) | * 1989年(H1)11月、仙台市に都市型CATV(有線テレビ)開局 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P264 | |
郵便馬車 | 運行開始 | 1884年(M17) | * 1884年(M17)12月、仙台~東京間の運行開始 | 「仙台市史 年表」P85 | |
郵便番号制度 | 発足 | 1968年(S43) | * 1968年(S43)7月1日、スタート | 「重訂 宮城県郷土史年表」P641 | |
郵便局 | 仙台郵便局 | 1872年(M5) |
* 1872年(M5)7月、仙台郵便取扱所を国分町に設置(「仙台市史 年表」P80) * 1875年(M8)1月、仙台郵便局と改称し、南町に移転 * さらにその後大町に移り、1882年(M15)に再び南町に移転(以上、「重訂 宮城県郷土史年表」P240) * 1890年(M23)、仙台郵便電信局として南町に新築移転 * 1899年(M32)以降は、仙台郵便局として、郵便・電信・電話・貯蓄・保険、および三県の管理を担当 * 1919年(T8)3月2日の南町大火で焼失 * 1919年(T8)5月12日、仙台郵便局、東一番丁に移転(「仙台市史10 年表」P252、「仙台市史 年表」P98) * 1920年(T9)8月6日、仙台郵便局、再び南町に再建移転(「仙台市史 年表」P99)(建物は三角屋根が3つになった) <戦災焼失> * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で郵便局、北隣の仙台電話局ともに焼失 / 郵便課は市内霊屋下の仙台逓信講習所に移転、電信課は東北学院専門部礼拝堂地下に移転し、業務続行(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580) <戦後>(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582) * 1946年(S21)2月9日、郵便局から電信課が分離し、仙台電信局に昇格 * 1946年(S21)12月20日、郵便局は南町に庁舎(木造2階建)再建し移転 * 1949年(S24)6月、逓信省が郵政省と電気通信省に分離 / 仙台逓信局は、仙台郵政局と東北電気通信局に分かれる * 1955年(S30)11月、仙台郵便局木造庁舎を建て替え、南町通りに新庁舎落成(地上4階地下1階) * 1957年(S32)11月、仙台郵政局、新庁舎に移転(南町通5番地/鉄筋コンクリート地上6階地下1階) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P240/「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真キャプション/「仙台市史 年表」P80、P98、P99/「仙台市史10 年表」P252、P311/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582 | 「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真/再建移転後は、53-95/「目で見る仙台の歴史」P177に、南町通りの仙台郵便局/同P193に、南町通りの仙台郵政局 |
郵便局 | 仙台中央郵便局 | 1965年(S40) |
<改称> * 1965年(S40)11月26日、南町通りの仙台郵便局が仙台中央郵便局と改称 * 1968年(S43)7月1日、郵便番号制、実施 * 1969年(S44)11月25日、郵便番号自動読み取り機、稼働(東北初) <北目町に移転> * 1973年(S48)9月15日、南町通から北目町に新築移転 * 1975年(S50)8月24日、仙台中央郵便局で、日曜配達休止実施 * 1987年(S62)4月23日、中央郵便局に、自動引受機登場 * 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P582/「仙台市史 年表」P124、P128/「重訂 宮城県郷土史年表」P654/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P223、P227/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62 | |
郵便局 | 仙台東郵便局 | 1966年(S41) | * 1966年(S41)8月8日、開設 | 「重訂 宮城県郷土史年表」P627 | |
郵便局 | 仙台鉄道船舶郵便局 | 1910年(M43) |
木造洋風2階建て ・「重訂 宮城県郷土史年表」P290に * 1891年(M24)9月、「仙台鉄道郵便電信局」を仙台に設置 * 1910年(M43)4月、「仙台鉄道船舶郵便局」と改称 南町にあった仙台郵便局とは違う(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P28の南町の「郵便局」と建物が違う)(これとは別の場所にあった可能性がある) 【Wikipedia[仙台鉄道郵便局]】 日本の郵便局の種類の一つで、鉄道事業者に郵便車を運行させてこれに職員が乗務し、鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送するとともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する業務を行っていた / 仙台鉄道郵便局はおもに東北地方南部の区間を担当した * 1910年(M43年)10月、「仙台鉄道船舶郵便局」(一等郵便局)を開局 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P290 / Wikipedia「仙台鉄道郵便局」 | 99-099 |
遺児の日 | 1939年(S14) |
<戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~> * 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年) * 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年) * その後も回を重ねるごとに人数が増えた |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23 | ||
遠見塚古墳 | 国の史跡に指定 | 1968年(S43) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より> 「遠見塚古墳は、仙台平野のほぼ中央部、広瀬川北岸に発達した標高約10mの自然堤防上に位置している。仙台市内では最大規模の前方後円墳であり、宮城県内においても雷神山古墳に次ぐ大型古墳である。1947年(S22)に駐留米軍の霞目飛行場拡張工事により後円部の北側半分が削られ、さらに仙台バイパスの計画路線に入る等破壊の危機にさらされたが、昭和43年に国の史跡に指定され、昭和55年には周辺部が追加指定となり、史跡公園として整備され、恒久的保存が図られた。昭和50年から昭和57年にかけて古墳の環境整備に伴って発掘調査が行われ、後円部から2基の割竹形木棺と副葬品として碧玉管玉(くだたま)、ガラス製小玉、竹製黒漆塗り竪櫛等が発見された。この古墳に埋葬されたのは、当時仙台平野一帯を支配した豪族と考えられ、構造や出土品から古墳時代末の4世紀末頃に築造されたものと考えられている。」 * 1968年(S43)、国の史跡に指定 |
仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」 | 「市民の戦後史(仙台市)」P86(古墳空撮)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図88~89(畑地時代空撮、H6空撮カラー) |
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