項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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用語(大東亜共栄圏) | 用語の使用はいつ始まったか | 1940年(S15)8月 | 有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる | 「東洋経済新報社 百年史」P647 | |
用語(東亜新秩序と大東亜新秩序} | 用語の使用はいつ始まったか | 1938年(S13)11月~/ 1940年(S15)7月~ |
・ 「東亜新秩序」は、1938年(S13)11月3日の第2次近衛声明(「東亜新秩序建設」声明)及び同年12月22日発表の「近衛3原則」で使われた ・ 「大東亜新秩序建設」は、第2次近衛文麿内閣の発足時、1940年(S15)7月26日の閣議決定「基本国策要綱」(大東亜新秩序・国防国家建設方針)で使用 |
岩波ブックレット「年表 昭和史」P15、P17 | |
新伝馬町商店街 | 由来 ほか |
<仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)> 「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」 * 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成 * 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116) <編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成 * 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成 * 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる * 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける |
仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP | 「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街) | |
名掛丁商店街 | 由来 ほか |
<仙台市HPより 名掛丁通り(ナカケチョウ)> 「御名懸組の組士屋敷が置かれたまちである。新伝馬町の東端から東七番丁車町に至るまでの丁をいう。明治二十年の鉄道開通で町内が二分され,駅から西は繁華街となった。駅の東裏には島崎藤村の下宿があり,「若菜集」の作品群が書きつづられた。」 * 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成 * 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成 * 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる * 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成 |
「仙台市HP」の「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(名掛丁通り)」/仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271 | 99-029、16-28、50-02、22-29、20-30/「市民の戦後史(仙台市)」P47(昭和20年代)/「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図35~36(S26年、H8年カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P371(アーケード、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P11(S29、商店街入口付近)、P52(S35年、俯瞰) | |
戦時中の勤労動員/就労規制(5) | 男子就業制限 | 1943年(S18) |
<戦時中の男子就業制限> * 1943年(S18)9月23日、閣議、国内必勝勤労対策決定 / 販売店員・出改札係・車掌など17職種の男子就業禁止、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員 |
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20 | |
敗戦後の諸相・仙台 | 町の流通機構ヤミ市(1)仙台駅周辺 | 1945年(S20)~ |
<バラック建ての仙台駅周辺> ・ 終戦直後いちはやくヤミ市が出現、物流はもっぱらこの“まちの卸屋”で行われ、「東北の上海」などといわれた * 1945年(S20)9月、露店にヤミ市が並ぶ(「仙台あのころこのころ八十八年」P250) * 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋(エックスバシ)間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215) * 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。 焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけに望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158) ・ 名掛丁には、通称“浅草楽天地”と呼ばれたバラックのマーケット街が出現、軍物資、ヤミたばこ、覚醒剤などが密売され、夜の女や不良の温床でもあった(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75) ・ 「仙台でのやみ市は、仙台駅前地区、東一番丁地区に10カ所あまりの青空市場ができたが、そば、ウドン、パン、いもなどの食べ物を中心に、食料品、衣料品、雑貨など統制物資までをも加えて法外な値をつけていた。市(いち)とまではならないが、東一番丁の空き地、大道に露天商が並び、戦後しばらく定職をもたないものはヤミ商人になったとまでいわれるようになる。(中略) 昭和21年5月の一斉取締りで仙台北警察署は東一番丁、仙台駅前、大学病院前の3か所から45名を検挙」(番丁詳伝」P159) ・ 仙台駅前(西側)のヤミ市(「戦災復興余話」P45~49より) 青葉通りなどの新設道路予定地や不在者宅地内にできたヤミ市で、ビッグ・スリーは、駅前マーケット(東五番丁/昭和24.10.10~31に市が代執行し80戸を強制撤去)、新興マーケット(仙台駅前/昭和25.3に14戸撤去)、国際マーケット(裏五番丁/昭和25.7に、28戸強制撤去) / 国際マーケット(203坪)の所有者は野路清蔵市会議員 【参照】 ヤミ市など不法建築物の強制撤去は、 項目「戦災復興事業」の小項目「不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺」、小項目「不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町」に詳述 <青空市場> ・ ヤミ市には、クツみがき、輪タク、街の女がたむろし、スイトン、しるこ、カストリ焼酎などは引っ張りダコ、なんとか飢えをしのごうという人たちで食べ物屋は大繁盛した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196/「戦災復興余話」P45~49/「わが心の仙台駅前史」P38/「仙台あのころこのころ八十八年」P250(年表)/「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158~159 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P772に、「町を行くやみ屋の列」(S25年3月、仙台駅前付近) |
敗戦後の諸相・仙台 | 町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
<東一番丁へ移される> ・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75) 【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」 ・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。 東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。 一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。 人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。 こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。 三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102 | ||
宮城婦人会 | 発会 | 1899年(M32) | * 1899年(M32)2月12日、宮城婦人会、日本赤十字社宮城支部で発会式 | 「仙台市史 年表」P90 | |
流行歌「ミス仙台」 | 発売 | 1936年(S11)夏 |
* 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。 (「番丁詳伝」P197) <歌詞> 一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川 若きひと夜の恋ごころ 仙台 仙台 なつかしや 二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露 君と歩みし思い出や 仙台 仙台 なつかしや 三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁 三味の音いろも泣きぬれて 仙台 仙台 なつかしや *「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34) |
「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34 | |
ユニオンビール | 発売開始 | 1922年(T11) | * 1922年(T11)4月3日、日本麦酒鉱泉が発売開始 | キリンHP「日本のビール歴史年表」 | ユニオンビール看板が、53-67、99-026、44-10、99-003に写る |
テレビアンラジオ | 発売開始 | 1936年(S11)7月1日 | 山中電機が発売した、時計つきのラジオ | 「日録20世紀 1936年」P30 | 53-14に「テレビアンラジオ」の広告看板あり |
東日本大震災 | 発生 | 2011年(H23) |
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生 / 東北地方太平洋沖地震による災害と、これに伴う福島第一原子力発電所事故による災害 <参考文献>「東日本大震災 仙台市 復興五年記録誌」(仙台市 平成29年3月刊)https://www.city.sendai.jp/shinsaifukko/shise/daishinsai/fukko/5nenkiroku.html |
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昭和三陸大地震津波 | 発生 | 1933年(S8) | * 1933年(S8)3月3日発生、マグニチュード8.1 / 岩手、宮城、中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 3000余人、うち宮城県が300余人) | ||
明治三陸地震津波 | 発生 | 1896年(M29) | * 1896年(M29)6月15日発生、マグニチュード8.2~8.5 / 岩手、宮城、青森中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 約2万2000人、うち宮城県が3400余人) | ||
紙幣・硬貨(戦後) | 発行年 |
* 1950年(S25)1月7日、日本銀行券千円札発行(聖徳太子像) * 1951年(S26)、日本銀行、新五百円札を発行 * 1953年(S28)12月31日、この日限りで、銭貨(50,20,10,5の各銭)は流通停止、1円黄銅貨も流通停止 * 1957年(S32)10月、五千円札発行 * 1957年(S32)12月11日、100円硬貨を発行、100円紙幣が次第に消えてゆく * 1963年(S38)11月1日、新千円札発行(伊藤博文) * 1982年(S57)4月1日、500円硬貨発行 * 1984年(S59)11月1日、日銀15年ぶりに新札発行(一万円札=福沢諭吉、五千円札=新渡戸稲造、千円札=夏目漱石の3種) |
岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P63/「重訂 宮城県郷土史年表」P540、P548、P586/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P47、P51、P76、P78 | ||
仁丹マーク | 発表 | 1905年(M38) |
* 1905年(M38年)2月、「仁丹」、日露戦争最中に懐中薬として発売 ・ 大礼服でデザインされた「仁丹マーク」は、発売当初の容器や宣伝看板のデザインとして使われている |
森下仁丹のHP | 44-19 |
大日本婦人会 | 発足 | 1942年(S17)2月2日 |
「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった * 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演) * 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成 * 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より 「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」 |
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16 | 16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ) |
郵便番号制度 | 発足 | 1968年(S43) | * 1968年(S43)7月1日、スタート | 「重訂 宮城県郷土史年表」P641 | |
ユネスコ協会(仙台) | 発足 | 1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月19日、仙台ユネスコ協力会発足 * 1948年(S23)、第2回ユネスコ運動全国大会(於仙台)/ 14回・40回も仙台で開催 * 1951年(S26)、仙台ユネスコ協会と改称 * 1954年(S29)、ユネスコ子供学校創設 * 1955年(S30)、第1回仙台ユネスコ夏期学校開催 * 1957年(S32)、社団法人仙台ユネスコ協会に改組 * 1957年(S32)6月16日、仙台ユネスコ会館落成(現・青葉区大町1-2-2、晩翠草堂の隣) / 2011年の東日本大震災で、ユネスコ会館被災⇒改修不能 これ以降は、「仙台ユネスコ協会HP」の「仙台ユネスコ協会のあゆみ」参照 |
「市民の戦後史(仙台市)」P101/仙台ユネスコ協会HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P585 | 「市民の戦後史(仙台市)」P101(ユネスコ会館) |
スポーツ少年団 | 発足 | 1961年(S36) | * 1961年(S36)、仙台市スポーツ少年団発足 / クラブ活動を行っていない子弟対象 / 地域別(学区、町内会、子供会ごと)と種目別の少年団 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P481 | |
青年学校 | 発足 | 1935年(S10) |
<「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)> 1935年(S10)4月1日、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学) <「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311> ・普通科(尋常小学校卒対象)は2年間(科目は、修身および公民科、普通学科、職業科、体操科、女子にはこのほかに家事および裁縫科) ・本科(高等小学校卒対象)は男子5年間(体操の代わりに教練)、女子3年間 / 土地の事情により1年短縮可 ・昭和14年から義務化され、第1期検閲までの訓練を入営前に完了が目標で、実業補修の影が薄れ、教練のみが強化された <「仙台市史 特別編4 市民生活」P452> ・ 陸軍省の強い要請に基づき、在郷軍人会・青年団・青年学校を軍事的な統一組織にしてゆくためのものだったことを物語っている ************************************* * 1935年(S10)7月31日、デパート藤崎に私立藤崎青年学校(男子38人)、片倉製糸工場内に私立片倉仙台青年学校(男子30人、女子570人)設置 * 1935年(S10)8月1日、仙台市青年学校16校開校(16あった実業補修学校や青年訓練所を所在の町名の青年学校とする、補習学校と青年訓練所の両方があったのは、南小泉・長町・西多賀・原町の4つで、原町以外の3つには青年学校となってからも女子部があった) / 仙台市工業専修学校が仙台市工業青年学校に、仙台市商業専修学校が仙台市商業青年学校になる(工業青年学校、商業青年学校は、S16年3月10日廃止) * 1939年(S14)4月26日、青年学校、男子のみが義務制になる * 1942年(S17)3月31日、仙台市立青年学校、17校廃止 * 1942年(S17)4月1日、仙台市立独立青年学校4校設置 * 1947年(S22)、青年学校廃止(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452) |
「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451~452/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史10 年表」P286、P304/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/ | 06-06/仙台市史 特別編4 市民生活」P451(秋保村青年学校の旗、カラー) |
宮城交通 | 発足 | 1970年(S45) |
<前史> * 1962年(S37)4月17日、塩釜交通・古川交通・仙台鉄道各社が合併し、宮城バス株式会社を設立(「仙台市史 年表」P122、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P603) * 1964年(S39)4月14日、仙北鉄道株式会社、宮城バス株式会社と合併(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603に詳細記述あり) * 1968年(S43)3月24日、仙北鉄道登米線を廃止(50年の歴史に終止符) * 1970年(S45)5月28日、宮城バス・宮城中央バス・仙南交通の私鉄3社、株主総会で合併を決定(「重訂 宮城県郷土史年表」P661) <発足以降> * 1970年(S45)10月、仙南交通・宮城バス・宮城中央交通が合併した宮城交通株式会社、営業運転開始(「仙台市史 年表」P127) * 1979年(S54)1月20日、デマンド・バス運行 * 1983年(S58)6月16日、北仙台~青根温泉など長距離運行廃止 * 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始 * 1985年(S60)10月16日、築館~仙台間に高速特急バス運行 * 1986年(S61)12月27日、東北運輸局が、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表 * 1988年(S63)4月12日、4年ぶりに終日バス運行 <運賃> * 1975年(S50)12月13日、最低料金50円に改訂 * 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ) * 1977年(S52)12月1日、値上げ(塩釜~利府が220円) <ストライキ> * 1979年(S54)12月20日、48時間スト * 1984年(S59)4月13日、宮城交通労組が24時間スト * 1984年(S59)4月17日、スト <仙台関連の交通史略年表(明治10年~平成4年)> →「仙台市史 特別編4 市民生活」P205に、乗合馬車・宮城木道社・舟運・バス・バス専用レーン・鉄道・市電・新幹線・地下鉄・空港・トラックターミナル・バイパス道路・自動車道の年表 |
「仙台市史 年表」P122、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P638、P661、P666/「続・ 宮城県郷土史年表」P48、P73、P74、P92、P105、P163、P172、P175、P195、P215、P243/宮城バスについては、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204、P205 | |
JR東日本 | 発足 | 1987年(S62) |
<これ以前は、項目「国鉄」へ> * 1987年(S62)4月1日、国鉄の分割民営化、JR東日本旅客鉄道株式会社発足 * 1989年(H1)1月25日、JR東日本、県内初の駅舎内コンビニ出店(東北線白石駅) |
「続・ 宮城県郷土史年表」P221、P258 | |
自警団 | 発足 | 1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より> ・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった ・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71) * 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足 |
「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101 | 22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字) |
公会と隣組 | 発足~廃止 | 1940年(S15)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した 「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461) ・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案 ・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施 ・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460) * 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂) 「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう 親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」 大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人 当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、 これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲 (「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51) ・6月に日本コロンビアからレコード化される (唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子) * 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合 * 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18) * 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始 * 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる * 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行 * 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止 * 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり /岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51 |
公会の慰安演芸大会は、06-17、06-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板) |
在外同胞救出仙台学生同盟 | 発足~解散 | 1946年(S21)2月~1950年(S25)2月 |
* 1946年(S21)2月~1950年(S25)2月、仙台在住の男女学生生徒たちが、敗戦半年後から4年間、復員兵や海外からの引揚者を仙台駅で世話 (湯茶の接待、相談、宿舎提供、健康診断) ・ 412人の学生生徒が参加 |
在外同胞救出仙台学生同盟史(昭和25年刊) | 78-01、78-02、78-03、78-04、78-05、78-06 |
木炭バス(仙台) | 登坂テスト成功 | 1939年(S14) | 仙台市街自動車、初めての代燃装置をつけた木炭バスが仙台城址入口の登坂テストに成功 | 「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P90 | 98-105 |
ネオンサイン | 省エネ消灯 | 1980年(S55) | * 1980年(S55)6月16日、省エネで、ネオン9割近く消灯 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P112 | |
簡易保険保養センター | 県内初 | 1975年(S50) | * 1975年(S50)12月24日、県内初の松島簡易保険保養センターがオープン | 「続・ 宮城県郷土史年表」P48 | |
学童疎開 | 県内割り当て | 1944年(S19) |
* 1943年(S18)12月10日、文部省、学童の縁故疎開促進を発表 * 1944年(S19)6月30日、学童疎開促進要綱、閣議決定(国民学校初等科児童の集団疎開) 7月下旬~9月上旬で全国46万人が集団疎開 ****************************** <「仙台市史 続編第1巻」P41、P53> * 1944年(S19)7月、東京の学童1万5000人の集団疎開、宮城県に割当(遠刈田、鳴子などの温泉や松島の旅館などに収容)(P41) / 同書P53では、東京から宮城県内への学童集団疎開数は1万1500人 <「重訂 宮城県郷土史年表」P502> * 1944年(S19)8月10日、東京方面からの疎開児童1万1115人が宮城県に割りてられる <「ものがたり東北本線史」P531~532> 宮城県内へは、東京都浅草区、小石川区、杉並区の児童が、秋保、白石、小原、鎌先、鳴子、川渡、松島、古川などへ疎開 <「目で見る仙台の歴史」P169> * 1944年(S19)8月11日~17日、第1陣(浅草、小石川の学童)、付き添い含め1万1800余名、県内各温泉や松島へ * 1944年(S19)8月下旬中心に、第2陣(杉並区の学童) <「戦争のころ 仙台、宮城」P144~150> * 1944年(S19)夏~秋にかけ、東京都(小石川区と浅草区)の26の国民学校生(3~6年生)が学校ぐるみで1万7535人、教職員1196人、計1万8731人が宮城県内に学童集団疎開(東京都編「資料・東京都の学童疎開」)) ・ 宮城県の資料では、1万5471人 ・ 疎開先は、県内30市町村、戦争が終わるまでほぼ1年間、温泉地や観光旅館、寺院、民家などで過ごす ・ 1994年(S19)8月4日~9月24日、臨時列車で13時間かけて到着 ・ 第1次分 小石川区学童6700人が鳴子温泉と松島町、浅草区学童6700人は遠刈田、川渡、小原,鎌先、作並の各温泉と松島町 ・ 1994年(S19)暮れまでには、杉並区の学童(11国民学校)が高舘村、松山、若柳、吉岡、角田、涌谷、金成、築館、登米、米谷、佐沼の各町へ、浅草区の学童(3国民学校)が秋保温泉へ、東京第一師範付属が中新田町へ疎開 ・ 翌年3月、6年生が卒業して帰京すると、4月から新3年生が到着 ・ 疎開先での生活の記述あり(日課、食糧事情、親の面会、寂しさからの脱走、地元の受け入れ、帰郷した6年生が空襲で犠牲など) ********************************* * 1945年(S20)9月26日、疎開児童の復帰を指令、学徒隊を解体 |
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41、P53/「ものがたり東北本線史」P531~532/「重訂 宮城県郷土史年表」P502、P506/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P144~150 | 「目で見る仙台の歴史」P169に「学童疎開列車内風景」 |
男女共学 | 県内高校で初 | 1973年(S48) |
<戦後学制改革で>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P275) * 宮城県第三高等女学校が、戦後学制改革で宮城県第三女子高等学校となり男女共学実施(2年間で共学廃止) * 仙台商業と仙台女子商業が形の上で合併し男女共学としたが、実質の伴わない共学で、1957年(S32)に元の2校に分離独立 * 1973年(S48)開校の県立泉高校が、公立私立を問わず、仙台市内では初の男女共学高校(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274) * 1950年(S25)4月8日、県立仙台第三高校、県内初の男女共学を採用(「仙台市史10 年表」P323)→これは間違い(県立仙台第三高校の開校は1963年(S38)年1月 同校HPより) |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P274~275/「仙台市史10 年表」P323 | |
競馬 | 県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 | 1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった * 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314) * 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため * 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118) * 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議) * 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200) |
「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃) |
野球場 | 県営宮城野球場(宮城球場) | 1950年(S25) | → 項目「県営宮城野球場(宮城球場)」参照 | ||
仙台合同庁舎 | 県庁構内 | 1966年(S41) | * 1966年(S41)4月1日、県庁構内外記丁105に竣工開庁(地下2階、地上9階)、東北財務局ほか16官署が入る | 「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「市民の戦後史」P181 | 「市民の戦後史(仙台市)」P40(旧・東北財務局庁舎)/同181(仙台地方合同庁舎) |
木材応召 | 県庁構内の大欅 | 1943年(S18) | * 1943年(S18)2月頃、宮城県庁構内の大欅(樹齢約300年)、木材応召により伐採(斧入式挙行) | 「重訂 宮城県郷土史年表」P459 | |
養賢堂 | 県民錬成道場として使用/ | 1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月10日、県民錬成道場養賢堂開堂式(学頭 阿刀田令造) |
「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499 | |
医療機関 | 県立愛宕病院 | 1950年(S25) | * 1950年(S25)、性病治療のため、県立愛宕病院、設立 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P396 | |
高等学校(新制) | 県立盲学校 |
<前史> * 1903年(M36)5月、東六番丁の日本キリスト教会に、「盲人日曜学校」開設 * 1907年(M40)4月、私立東北盲人学校開設(盲人日曜学校閉鎖) * 1914年(T3)5月、「宮城県立盲唖学校」開校式(外記丁の旧宮城師範構内) * 1925年(T14)9月、北七番丁に新校舎落成、 * 1935年(S10)8月、東九番丁校舎に移転 * 1937年(S12)3月、「盲部」および「聾唖部」を置き、各部を初等部・中等部に分ける * 1937年(S12)7月1日、ヘレン・ケラー女史来校 * 1945年(S20)7月21日~10月24日、栗原郡宮野村能持寺に疎開学寮開設 * 1947年(S22)5月26日、フラナガン神父来校 |
宮城県立視覚支援学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P517~518 | 「目で見る仙台の歴史」P185に、「フラナガン神父来校」、「ヘレンケラー女史来校」) | |
高等学校(新制) | 県立聾学校/宮城県立 聴覚支援学校 | 1948年(S23) |
<前史> * 1902年(M35)、宮城県師範学校附属小学校に唖生部開設 * 1906年(M39)、同唖生部廃止 * 1914年(T3)5月、「宮城県立盲唖学校」開校式(外記丁の旧宮城師範構内) * 1925年(T14)9月、北七番丁に新校舎落成、 * 1935年(S10)8月、東九番丁校舎に移転 * 1937年(S12)3月、「盲部」および「聾唖部」を置き、各部を初等部・中等部に分ける <学制改革後> * 1948年(S23)4月、学校教育法制定で、盲・聾学校教育の義務制施行 / 「宮城県立盲唖学校」が学制改革で小・中学部、高等部専攻科を編制、同時に同校盲部が「宮城県立盲学校」、聾啞部が「宮城県立聾学校」となる * 1951年(S26)6月、聾学校が分離し、長町鹿又の新築校舎に移転 ・ 高等部には、普通教育のほか、被服、理容、工芸、塗装の各科 / 高等部専攻科では、職業科目、保健体育に重点、社会生活に必要な聴能訓練、言語能力の拡充を目指す * 2009年(H21)4月1日、校名を、宮城県立ろう学校から宮城県立聴覚支援学校に校名変更 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P518 | |
亀岡八幡神社 | 県重文指定 | 1970年(S45) |
伊達藩四代綱村が建立 * 1683年(天和3)落成、仙台東照宮や塩釜神社と並んで豪壮な神殿づくりで、仙台藩の氏神だった * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 * 1966年(S41)、新社殿落成 * 1967年(S42)、境内の一部に、市の老人福祉センターが完成(大浴場、休養室、健康相談室) * 1970年(S45)10月17日、石造大鳥居と鳥居額、県の重要文化財に指定(大崎八幡宮の石造大鳥居とともに)(「重訂 宮城県郷土史年表」P664) * 1978年(S53)12月16日、境内に「輜重兵第二連隊の碑」建立 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187~188/「重訂 宮城県郷土史年表」P664/「続・ 宮城県郷土史年表」P89 | 「仙台市史写真集 市民の戦後史」P21/「目で見る仙台の歴史」P65に社殿と内部 |
仙台空港 | 矢ノ目飛行場時代 | 1940年(S15)~1964年(S39) |
<戦前は軍用> * 1940年(S15)11月、矢ノ目飛行場、熊谷陸軍飛行学校増田分校教育隊練習基地として名取郡下増田村・玉浦村に飛行場が建設される(「仙台市史 年表」P110) * 1939年(S14)、玉浦飛行場造成。 名取郡玉浦村矢野目と同郡下増田にまたがる松林と農地300haを買収し、突貫工事で造成。熊谷陸軍飛行学校増田分教場としてパイロット養成にあたる。2年後に、熟練パイロット養成の部隊に通信隊を併設。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155) * 1945年(S20)、本土決戦に備えて隼(はやぶさ)、鐘馗(しょうき)、疾風(はやて)などの偵察隊や重爆撃機を配備したが、活躍の場がないまま敗戦。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155) <戦後、進駐軍(米軍)が接収> * 戦後、米軍が接収し弾薬集積場として使用 <防衛庁、運輸省が共同使用> * 1955年(S30)?1956年(S31)?、「矢ノ目飛行場」がGHQ(連合軍総司令部)より返還され、防衛庁と運輸省が共同使用(空港の管理は防衛庁) * 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設 <民間機、定期航空路線開設> * 1957年(S32)4月22日、「仙台飛行場」開港式、民間空港として使用開始、仙台~東京間の定期航空路線開設(第1便運行) * 1957年(S32)4月24日、矢ノ目飛行場、民間空港「仙台飛行場」として供用開始、1番機運航 * 1958年(S33)6月1日、全日空、仙台~札幌便就航 * 1963年(S38)5月10日、全日空機が仙台空港で着陸に失敗し、8人重軽傷 * 1964年(S39)3月17日、矢ノ目飛行場、第二種空港指定を受け、「仙台空港」と改称(「仙台市史 年表」P123) <所管、防衛庁→運輸省へ> * 1962年(S37)6月25日、仙台空港は防衛庁より運輸省へ所管換えとなる(「重訂 宮城県郷土史年表」P605) * 1964年(S39)8月、飛行場面の管理が、防衛庁から運輸省航空局へ(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605) |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605/「仙台市史 年表」P110、P120、P123/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P605、P608/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/仙台国際空港HP | 「市民の戦後史(仙台市)」P99(矢ノ目飛行場、就航したフレンドシップ機)/「市民の戦後史(仙台市)」P145(S38年5月、着陸失敗事故の全日空機) |
青葉城 | 石垣損壊 | 1964年(S39) | * 1964年(S39)6月16日、新潟地震で、仙台は震度5、青葉城址の石垣の一部が崩れる | 「重訂 宮城県郷土史年表」P614 | |
文学碑など(仙台) | 石川善助の詩碑 |
* 1958年(S33)9月27日、詩碑建立 / 愛宕山神社のかたわら、仙台市を一望できる場所にある 「化石を拾ふ。 光の澱む切り通しの中に、童子が化石を捜してゐた。 黄赭の地層のあちこちに、白いうづくまる貝を掘り、遠い古生代の景色を夢み、母の母なる匂ひを嗅いでゐた。 もう日は翳るよ、空に鴉は散らばるよ。 だのに、なほも探してゐる。探してゐる。 外界のこころを、生の始めを、母を、母を」 ・ 「番丁詳伝」P104~105に、国分町生まれの詩人石川善助の生い立ち、経歴、詩の世界につき記述あり |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191/「番丁詳伝」P104~105 | ||
敗戦後の諸相・仙台 | 石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
<戦後も燃料飢饉> ・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる ・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた ・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した <火葬場にも赤信号> ・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生 <銭湯は客急増> ・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用 ・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に ・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭 ・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82 | ||
スポーツ大会(戦後復興期) | 社会人野球 | 1950年(S25) | * 1950年(S25)秋、第2回社会人野球四地区オールスター大会 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470 | |
大崎八幡宮 | 社殿落成 | 1604年(慶長9) |
<社殿落成年、資料により異なる> * 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115) * 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75) * 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77) * 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125) * 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定 * 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具 * 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース) * 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現 * 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに) * 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活 |
文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181 | 99-128、99-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭) |
青葉神社 | 神輿渡御復活 | 1948年(S23) |
* 1948年(S23)5月23日、青葉祭 / 春の例祭で神輿渡御が13年ぶりに行われ、あわせて甲冑の武者行列も * 1961年(S36)5月のゴールデンウィーク、全市あげて青葉神社祭典(武者行列、神輿渡御、相馬浪江の相撲甚句や宝財おどり) |
「仙台市史 年表」P115/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182、P714 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182の写真49/「市民の戦後史(仙台市)」P226(5月の青葉神社例祭の武者行列) |
俯瞰撮影禁止など | 禁止決定 | 1939年(S14) |
* 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止 * 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大 |
「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213 | |
火災(地域) | 福田町 | 1902年(M35) | * 1902年(M35)4月6日、宮城郡高砂村福田町、72戸焼失 | 「仙台市史 年表」P92 | |
タクシー | 福祉タクシー | 1977年(S52) |
* 1977年(S52)4月(11月?)、仙台市の個人タクシー事業協同組合、福祉タクシー120台実施 * 1977年(S52)12月5日、仙台市のフタバタクシー、車いすのまま乗車できる障害者用タクシー開始 |
「続・ 宮城県郷土史年表」P66、P76、P74 |
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