項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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人力車 | 仙台人力車挽子組合 | 1920年(T9)~1925年(T14) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P503> * 1920年(T9)10月、仙台人力車挽子組合、青年自由革新党幹事の渡辺保蔵の指導で組織 * 1923年(T12)8月、仙台人力車挽子組合、再建総会 / 賃金改善と特に個人営業の自由を阻むすべての制限撤廃が運動方針 / 800余名の挽子全員を組織化 * 1925年(T14)9月、人力車挽子組合大会と値上撤廃期成大演説会(東三番丁の電気館 ☆末尾の注参照) / 人力車借用料値上反対した仙台停車場構内人力車挽子のストライキが口火となる / 800余名全員のストライキも辞さないという態度に、営業者側は無条件で値上案を撤回 / その後、個人営業の権利獲得運動を継続 ・ これに自信を得た仙台停車場構内の挽子は、雇入れ・解雇は営業人と挽子合議の上で決定し、車体破損弁償は実費分を挽子と営業人が合議の上で決定することなどの要求で交渉し、全面勝利 <仙台市史 特別編4 市民生活」P193> ・ 1925年(T14)9月3日、仙台人力挽子組合臨時緊急集会(於:国分町の電気館) / 歯代(仙台駅構内の挽子80余名が営業者に収める額)1か月で18円から30円に引上げに反発 ☆注: 電気館は、「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236によれば、国分町にあり、前身は大正3年4月開館の世界館で、その後日本館、帝国館、キネマ館と改称し、大正11年5月27日に電気館と改称した / 東三番丁ではない) |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P503 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P503(T14年、人力車挽子組合大会・値上げ撤廃期成大演説会) |
人力車 | 台数ほか(仙台) | 明治・大正・昭和 |
* 1872年(M5)、新河原町で人力車営業が開始(伊藤清次郎と清水稔)(「仙台市史 年表」P80、「仙台市史 特別編4 市民生活」P192) * 1873年(M6)、国分町の竹虎が開業(10台保有)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P192) <「仙台あのころこのころ八十八年」P16> * 1878年(M11)、市内に671台(大部分が営業用) * 1980年(M13)、市内に755台 ・ 人力車は当時の花形であり、隣県の業者と連絡して継ぎたてをしてゆくと、仙台から6日間で東京へ行けた * 日本鉄道(現・東北本線)開業の明治20年頃、559台に減る(「番丁詳伝」P110) <「番丁詳伝」P63より> * 1889年(M22)、一人乗り596台、二人乗り8台 * 1897年(M30)、一人乗り1050台、二人乗り5台 * 1905年(M38)、一人乗り977台、二人乗り2台 * 1916年(T5)、一人乗り1055台 * 大正時代末期には、仙台の人力車は900台ほど / 市電開通(大正14年末)やバスの普及で減る(「新・目で見る仙台の歴史」P146) * 1930年(S5)には327台(「番丁詳伝」P110) * 1935年(S10)頃、210台({仙台の産業と観光」P27) * 1941年(S16)10月4日、15年ぶりに人力車復活(「仙台年表」P211) <「仙台市史 続編1」P88より> ・1943年(S18)、197台 ・1944年(S19)、169台 ・1945年(S20)、69台 ・1946年(S21)、40台 * 戦後しばらくも人力車が活躍 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194/「仙台市史 年表」P80、P211/「新・目で見る仙台の歴史」P146/「仙台年表」P211/「仙台あのころこのころ八十八年」P16/「仙台の産業と観光」(S11、仙台市役所刊)P27/「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)P110/「仙台市史 続編1 行政建設編」P88 | 99-004、22-44、19-02、16-21、22-10、44-50、22-12、16-19/「新・目で見る仙台の歴史」P146(人力車のある風景))/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193に人力車 |
人力車 | 台数ほか(宮城県内) | 明治・大正・昭和 |
* 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台 * 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台 * 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子 * 1912年(T1)、2074台 (314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人) * 1918年(T7)、1720台 * 1925年(T14)、1366台 ・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり ・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された ・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた ・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194 | 16-27(輪タク) |
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