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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
進駐軍(米軍) |
憲兵隊(MP)/CID |
1945年(S20)~ |
<憲兵隊>
・ 憲兵隊本部:占領当初は、進駐軍司令部と同じ北一番丁の簡易保険局庁舎内に置かれ、仙台北警察署や塩釜署など駐屯地を管轄する警察に出先があり、地元警察官とともに米兵販犯罪防止、取締りにあたる / 仙台北警察署には、4人のMPが常駐
・ 米軍憲兵(MP)は、米兵の犯罪摘発が任務だが、次第に政治活動や労働運動の急進化を監視する公安警察としての役割が目立ってくる
<CID>
* 1946年(S21)4月、米犯罪捜査部(CID)設置され、次第に捜査権限を拡大
* 1947年(S22)、仙台のCID本部が、憲兵隊(MP)から独立し、東邦ビル(南町)に移転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P327
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44-65、44-36、44-61、44-41、44-31、44-58
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進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
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進駐軍(米軍) |
24師団 |
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* 1952年(S27)2月17日、GHQ、朝鮮戦線帰還の米軍24師団、仙台地区に駐留と発表
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「仙台市史10 年表」P327
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進駐軍(米軍) |
予備軍団(第16軍団) |
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* 1951年(S26)4月13日、GHQ、仙台に予備軍団設置を発表(総司令官アーレン少将)
* 1951年(S26)5月12日、仙台所在の総司令部予備軍団を、第16軍団と改称
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「仙台市史10 年表」P325/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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「市民の戦後史(仙台市)」P74(16軍団長と岡崎市長)
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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進駐軍(米軍) |
米軍鉄道輸送司令部(RTO仙台) |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
→ 項目「RTO(仙台)」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
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「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
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90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
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進駐軍(米軍) |
宮城県知事事務引継書(昭和20年)より |
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【「宮城県知事事務引継書」(昭和20年 生悦住求馬知事→千葉三郎知事)】より
<進駐した米軍部隊>
・ 第8軍第14師団、同砲兵隊、第11空挺師団第187連隊、東部122部隊、第6工作隊
・ 司令官は空挺師団長のスウィング少将
<進駐先>
仙台市、塩釜市、石巻市、松島町、古川町、大河原町、多賀城村
<警備体制>
・ 宮城県警察部655人、応援として岩手県から50人、秋田県から30人
・ 県内28か所に検問所設置、373人を動員して警戒した
<接収された施設>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)、歩兵第4連隊(仙台市榴岡)、陸軍飛行場(仙台市霞目)、陸軍飛行場(岩沼)、海軍松島飛行隊(矢本)などのすべての軍施設
・ 仙台の尚絅女学院、日銀社宅、塩釜の二つの学校、倉庫15棟、仙台市内の富国生命、安田生命、明治生命の各ビル
・ 仙台地方簡易保険局(仙台市北一番丁)は、東北6県の占領行政を監視する第8軍第14軍団司令部がおかれた
・仙台市内の民間住宅60戸(将校用宿舎に)
<編者注>
・この時点では、のちにキャンプ・センダイとなる、第二師団司令部と各部隊兵営(仙台市川内)用地が接収対象に記載されていないようだ
【「戦争のころ 仙台、宮城」P244】に、仙台市川内のキャンプ・センダイ用地(第二師団司令部と各部隊兵営跡)の接収関連の記述あり → 項目「進駐軍(米軍)の小項目「宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地)」参照
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占領軍に建物を円滑に引き渡すために、仙台市内の中学生、旧制高等学校生、大学生が大勢集められ、「机、いすなどの備品は今日中に市内の郵便局に移すよう」命令された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242)
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240~242
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
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進駐軍(米軍) |
第14軍団司令部 →第9軍団司令部 |
1945年(S20)9月/1946年(S21)4月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」】
・ 占領初期、東日本の占領は米軍第8軍が担当 / 新潟を含む東北地区は、第8軍指揮下の第14軍団が進駐し、司令部は仙台 / 宮城県に進駐は、第8軍団に属する第11空挺師団
* 1945年(S20)9月、仙台に第14軍団司令部が置かれたが、S20年暮に14軍団は廃止された(札幌に司令部を置く第9軍団に統合)
* 1946年(S21)4月、第9軍団司令部が札幌から仙台に移された(これ以降、第9軍団軍政部が関東以北の占領に責任をもつ)
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」 に、宮城県に進駐した米軍の軍団名、連隊名、その変遷の一部が記述されている
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【(「戦争のころ 仙台、宮城」P244】
「仙台に米軍が進駐してから3か月もたたない昭和20年12月、東北地方の占領行政を監視する第8軍は突如、北海道に移転、第9軍団と統合 / その3か月後には再び仙台に戻った(第9軍団司令部が仙台へ移転)しかも担当地域は従来の北海道、東北に加えて、東京、横浜を除く関東、甲信越を含む地域に拡大 / 米英とソ連の冷戦は激化しており、ソ連領に近い北海道に司令部を置くことを敬遠したのでしょう」「仙台の拠点性が高まり、米軍の大規模駐屯地の建設が急がれ米軍の要求で、仙台の旧陸軍用地を提供、キャンプ・センダイとなる」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324】より
<先遣隊>
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)到着 / 横浜からジープ38台に分乗した先遣隊106名が、同日未明に陸路松島に到着し、松島パ-クホテルに分宿 /知事はじめ県首脳部と会見(進駐軍宿舎や物資集積所のための施設・建物の接収を決める)
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240では、「宮城県には9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 翌日から、米軍と宮城県の間で宿舎、施設利用、警備について協議が始った」
・ 進駐軍との事務的交渉窓口「渉外事務処理本部」は、この会談を機に、知事直結の窓口として「知事官房渉外課」を設置
<海上から>
* 9月15日、東北地区進駐軍最高幹部らが塩釜港に上陸し、松島に入る
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月15日、塩釜港に6席の艦船から約3800人の兵士が上陸用舟艇を使ってまるで敵前上陸のように進駐してきました」
<列車で到着>
* 19月16日、2本の特別列車で約1000名、仙台駅到着 / 塩釜港には艦艇で着いた約3800名上陸 / 仙台(原町苦竹の造兵廠)、多賀城(海軍工廠)、松島に分駐 / 将校以上の幹部たち、ジープで国道6号線経由仙台に到着し、そのまま松島に入る
* 9月17日、1200名、特別列車で仙台着
* 9月18日、2580名、特別列車で仙台着
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月16日朝には東北線、常磐線の特別列車で1100人の兵士が仙台駅に到着したのを皮切りに26日迄に、列車と船舶、ジープ、トラックで合計1万95人が宮城県内に展開しました」
・ 9月26日までに、計約1万名が宮城県に進駐
・ 仙台、多賀城、松島のほか、塩釜石巻、古川、船岡などに駐屯(兵士数は造兵廠と海軍工廠に駐屯が圧倒的に多い)
・ 仙台では、霞ノ目飛行場や榴ケ岡の東部122部隊地にも小部隊が入った
<簡易保険局庁舎接収し、中枢機能を置く>
・ 第14軍団司令部(その後の第9軍団司令部も)、第11空挺師団司令部、宮城県を管轄する軍政団司令部、MP(憲兵隊)本部など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324、P327 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~240
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)
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