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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
霞目飛行場(仙台飛行場) |
米軍接収、自衛隊基地 |
1945年(S20)9月/1957年(S32)12月 |
<戦後は一時、進駐軍(米軍)が進駐・使用>
* 1945年(S20)9月、米軍が接収し、飛行場として使用(レニアフィールドと称す)
・落下傘部隊の駐屯地になった(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
<接収解除後は自衛隊>
* 1957年(S32)12月10日、陸上自衛隊の飛行場として使用開始(「仙台市史 年表」P120)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「重訂 宮城県郷土史年表」P585/「仙台市史 年表」P120/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155
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戦後の接収時代は、62-06、62-07
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進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
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「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
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90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
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進駐軍(米軍) |
宮城県知事事務引継書(昭和20年)より |
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【「宮城県知事事務引継書」(昭和20年 生悦住求馬知事→千葉三郎知事)】より
<進駐した米軍部隊>
・ 第8軍第14師団、同砲兵隊、第11空挺師団第187連隊、東部122部隊、第6工作隊
・ 司令官は空挺師団長のスウィング少将
<進駐先>
仙台市、塩釜市、石巻市、松島町、古川町、大河原町、多賀城村
<警備体制>
・ 宮城県警察部655人、応援として岩手県から50人、秋田県から30人
・ 県内28か所に検問所設置、373人を動員して警戒した
<接収された施設>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)、歩兵第4連隊(仙台市榴岡)、陸軍飛行場(仙台市霞目)、陸軍飛行場(岩沼)、海軍松島飛行隊(矢本)などのすべての軍施設
・ 仙台の尚絅女学院、日銀社宅、塩釜の二つの学校、倉庫15棟、仙台市内の富国生命、安田生命、明治生命の各ビル
・ 仙台地方簡易保険局(仙台市北一番丁)は、東北6県の占領行政を監視する第8軍第14軍団司令部がおかれた
・仙台市内の民間住宅60戸(将校用宿舎に)
<編者注>
・この時点では、のちにキャンプ・センダイとなる、第二師団司令部と各部隊兵営(仙台市川内)用地が接収対象に記載されていないようだ
【「戦争のころ 仙台、宮城」P244】に、仙台市川内のキャンプ・センダイ用地(第二師団司令部と各部隊兵営跡)の接収関連の記述あり → 項目「進駐軍(米軍)の小項目「宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地)」参照
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占領軍に建物を円滑に引き渡すために、仙台市内の中学生、旧制高等学校生、大学生が大勢集められ、「机、いすなどの備品は今日中に市内の郵便局に移すよう」命令された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242)
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240~242
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進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
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進駐軍(米軍) |
第14軍団司令部 →第9軍団司令部 |
1945年(S20)9月/1946年(S21)4月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」】
・ 占領初期、東日本の占領は米軍第8軍が担当 / 新潟を含む東北地区は、第8軍指揮下の第14軍団が進駐し、司令部は仙台 / 宮城県に進駐は、第8軍団に属する第11空挺師団
* 1945年(S20)9月、仙台に第14軍団司令部が置かれたが、S20年暮に14軍団は廃止された(札幌に司令部を置く第9軍団に統合)
* 1946年(S21)4月、第9軍団司令部が札幌から仙台に移された(これ以降、第9軍団軍政部が関東以北の占領に責任をもつ)
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」 に、宮城県に進駐した米軍の軍団名、連隊名、その変遷の一部が記述されている
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【(「戦争のころ 仙台、宮城」P244】
「仙台に米軍が進駐してから3か月もたたない昭和20年12月、東北地方の占領行政を監視する第8軍は突如、北海道に移転、第9軍団と統合 / その3か月後には再び仙台に戻った(第9軍団司令部が仙台へ移転)しかも担当地域は従来の北海道、東北に加えて、東京、横浜を除く関東、甲信越を含む地域に拡大 / 米英とソ連の冷戦は激化しており、ソ連領に近い北海道に司令部を置くことを敬遠したのでしょう」「仙台の拠点性が高まり、米軍の大規模駐屯地の建設が急がれ米軍の要求で、仙台の旧陸軍用地を提供、キャンプ・センダイとなる」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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進駐軍(米軍) |
地元行政当局への要請・指示/進駐軍要員 |
1945年(S20)9月~ |
・ 占領軍は、占領に必要なことすべてを、自らの行動・命令でなく、日本の行政当局への要請・指示を通じて行うことが原則
・ 進駐軍宿舎その他の施設の接収、設営、保守、警備、荷役、運搬作業も、当該都道府県や市町村の責任で行われた
・ 要求は期限付きで出され、反抗やサボタージュは処罰の対象となった
・ 進駐軍宿舎・施設の警備には、県内の警察官の半分以上を投入、さらに9月末に急きょ警察官を大募集し300人増員、岩手県から50人、秋田県から30名ほど臨時の応援を得た
・ 警察は進駐軍雑役業務作業員調達の責任があり、進駐から1か月余りで約4500人を集めた(仙台その他の兵舎、宿舎、倉庫での労務)
・ 進駐軍要員と言われた雑役作業員は、進駐軍駐屯地の労務管理事務所を通じて、部屋の清掃、倉庫の片づけ、建築資材の運搬などさまざまな作業にかり出されたが、中には復員軍人や徴用解除者が多かった
<進駐軍施設で働いた日本人たち>(「戦争のころ 仙台、宮城」P245~246)
・ 宮城県内では1万数千人といわれる / 身分は国家公務員特別職で、給料は終戦処理費から払われた
・ 宮城県では渉外事務局が、駐留地の施設、労務問題を担当 / 賃金、採用など労務問題を扱うのが「渉外労務事務所」で、仙台(川内、榴岡、原町苦竹、霞目、作並)、矢本、船岡、多賀城に事務所があった
・ 職種は120種あり、通訳、翻訳、書記などの事務職、運転手、ボイラーマン、大工、塗装工、理髪師などの技術職、ハウスメイド、コックなどの家庭住宅要員、消防、警備など
・ 最初の頃は、人が集まらかった / その後、給料は一般の5割増し、職種によっては労務加配米を支給が分かって応募者が増えた
・ 「検閲官」とよばれる日本人もいて、マスメディアだけでなく郵便物も調べた / 進駐してから3年間は徹底した事前検閲制をとり、新聞、ラジオは印刷、放送前に検閲を受けた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P325/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245~246
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人力車 |
台数ほか(宮城県内) |
明治・大正・昭和 |
* 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台
* 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台
* 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子
* 1912年(T1)、2074台
(314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人)
* 1918年(T7)、1720台
* 1925年(T14)、1366台
・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり
・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された
・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた
・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194
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16-27(輪タク)
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駐留軍(米軍) |
進駐軍から駐留軍へ |
1952年(S27) |
☆ 駐留軍以前の「進駐軍時代」は → 項目「進駐軍(米軍)」参照
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、対日講和条約発効し、連合国軍(米軍)の日本占領終る / 占領軍(進駐軍)だった米軍は、以後は駐留軍として日本に基地を置く
* 1955年(S30)4月15日、駐留米軍、労務者250人を解雇し社会問題化
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「重訂 宮城県郷土史年表」P578
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朝鮮戦争 |
開戦~休戦 |
1950年(S25)~1953年(S28) |
* 1950年(S25)6月25日、開戦(北緯38度線で戦闘開始)
* 1950年(S25)8月25日、朝鮮特需はじまる(菅家年表)
* 1951年(S26)7月10日、休戦会談、開城で開く(~8.23戦闘は続く)
* 1951年(S26)10月25日、朝鮮休戦会談、板門店で再開(会談中戦闘続く、戦局膠着状態)
* 1953年(S28)7月27日、朝鮮休戦協定調印
戦後(S20年9月から)仙台など県内に進駐した占領軍(進駐軍=米軍)将兵は多い時で1万5000人(2万人説もある→後述)に達したが、朝鮮戦争開始後は、大幅に減った /「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P30、P32/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P551/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/「市民の戦後史(仙台市)」P72
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電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
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二十人町 |
戦後 |
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・ 戦後、昭和20年9月~31年6月に、近くの歩兵第4連隊兵営跡地に米占領軍が駐留(キャンプ・ファウラー)
・ 市中心部が戦災で壊滅した中で二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという
・ 商店数はS10年頃が54店、S30年頃が70店
しかし、
* 1952年(S27)、最寄駅の仙石線東七番丁駅(昭和19年に仙台東口駅と改称)が廃止
* 1956年(S31)6月、米軍キャンプ・ファウラーが返還
* 1956年(S31)、片倉工場閉鎖 などで
商店街はそれまでの存立基盤を失うが、S20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、青年会もS32~35年には七夕仕掛物で毎年、全市商店街コンクールで2等賞を獲得などが明るい話題となった
* 1985年(S60)、再開発事業に着手(「仙台クロニクル」P120)
<二十人町教会>
商店街の真ん中に1895年(M28)年から二十人町教会があった
* 1982年(S57)6月、1909年(M42)建築の教会堂、取壊し始まる
* 1988年(S63)、教会が原町5丁目に移転
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「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120
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二十人町の七夕仕掛け物、75-01、75-02/「目で見る仙台の歴史」P189(戦後20年代の二十人町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図67~68(二十人町S32年、H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、カラー)
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敗戦後の諸相・仙台 |
女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ |
1945年(S20)9月 |
9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)
* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)
・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243
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敗戦後の諸相・仙台 |
進駐軍相手の「特殊慰安施設」 |
1945年(S20)秋~1946年3月 |
<特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)
・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158
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敗戦後の諸相・仙台 |
英語標識設置 |
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・ 仙台駅、占領軍の要請で駅名をローマ字表示(写真16-16)
・ 西公園前・南町通はメープル街、南町・国分町はエルバリ街、光前寺通・駅前はインディアナポリス街などの標識設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68~69
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16-42、16-44、16-46、16-36、16-23、16-16、25-14、53-31、44-45、44-29-01、25-10、99-148
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松島パークホテル |
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* 1913年(T2)8月15日、開業
・ 松島への外国人観光客誘致のために、東北地方初のリゾートホテルとして宮城県が建設 / 宮城県から借り受けた精養軒(東京)が運営した
・ 松島パークホテルは、景勝松島に建設した木造洋館風の建物で、県の迎賓館ともいえるものです / 占領軍撤退後の昭和44年3月、火災で全焼しています(「戦争のころ 仙台、宮城」P240)
* 1945年(S20)9月、宮城県に進駐した米軍が接収 / ドン准将ら幹部の宿舎となった。(「宮城県史 警察兵事」P249)
* 1969年(S44)、火災で2階を焼失後に撤去された
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「宮城県史 警察兵事」P249/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240
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35-01
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