項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
山火事 |
泉市松森地区 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)4月27日、泉市(当時)の松森地区で大規模な山火事発生、山林862ヘクタール、住宅など21棟が焼失
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「仙台市史 年表」P133
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山形自動車道 |
部分開通 |
1988年(S63)~ |
* 1981年(S56)4月15日、国道286号笹谷トンネル(笹谷IC ~ 関沢IC)開通(3,385m)
/ 山形自動車道の笹谷IC~ 関沢IC間は、開通当初は国道286号のバイパス有料道路(笹谷トンネル)として供用されたが、4車線化後、1998年(H10)に高速自動車国道に格上げされて、山形自動車道に繰り入れられた
* 1988年(S63)10月13日、村田JCT~宮城川崎間、開通(110.4キロ)
* 1989年(H1)7月26日、山形北~寒河江間、開通
* 1990年(H2)10月4日、宮城川崎~笹谷峠間、開通
* 1991年(H3)7月31日、関沢~山形北(14キロ)開通(これで、村田JCT~寒河江間が全通)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P126、P252、P268、P270
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闇市 |
仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけ望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
戦後、仙台市内で強制撤去された、ヤミ市を含む場所の一覧(S23年3月~27年12月)は、当サイト内「写真データベース」、写真(画像)番号98-034にあります
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「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158
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98-034/「新・目で見る仙台の歴史」P171(ヤミ市の風景)
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やりなおし市長選挙 |
仙台市 |
1958年(S33) |
* 1955年(S30)4月30日仙台市長選、岡崎栄松4期目当選に対し、革新系島野武候補側が、市選管に異義申し立て / 市選管は票再点検の結果、却下(この過程で投票総数増加等の疑惑) / 仙台地検捜査開始 / 県選管も投票用紙点検し、選挙無効と裁定 / 岡崎派が行政訴訟
* 1956年(S31)12月25日、仙台高裁、選挙無効判決
* 1957年(S32)12月17日、最高裁が、仙台市長選挙無効の判決
* 1958年(S33)2月2日、やりなおし選挙で、島野武当選
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P116~118/「重訂 宮城県郷土史年表」P586、P587
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「市民の戦後史(仙台市)」P103と、「新・目で見る仙台の歴史」P182に「S33年2月、初当選し登庁する島野武市長」
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挹翠館(ゆうすいかん) |
建設~焼失 |
1886年(M19)~1945年(S20) |
桜ケ岡公園(西公園)にあった木造の割烹(和洋料理店)だったが、M42年に仙台市が買収し、戦前は仙台市公会堂として使用された
* 1886年(M19)1月24日 建設(木造2階建て、寄棟造瓦葺、真壁漆喰塗)
* 1887年(M20)、桜ケ岡公園内に開業 / 木造2階建ての和洋料理店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
* 1909年(M42)5月18日、市が買収し、仙台市公会堂となる
* 1916年(T5)に、隣接して洋館の公会堂新館が竣工したあと、挹翠館は公会堂本館とよばれた
* 1945年(S20)7月10日、公会堂本館(挹翠館)、洋風新館とも、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273/「仙台市史 年表」P85、P94/「古写真に見る仙台の建築」P43/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
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98-058、98-059/「目で見る仙台の歴史」P117
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郵便局 |
仙台郵便局 |
1872年(M5) |
* 1872年(M5)7月、仙台郵便取扱所を国分町に設置(「仙台市史 年表」P80)
* 1875年(M8)1月、仙台郵便局と改称し、南町に移転
* さらにその後大町に移り、1882年(M15)に再び南町に移転(以上、「重訂 宮城県郷土史年表」P240)
* 1890年(M23)、仙台郵便電信局として南町に新築移転
* 1899年(M32)以降は、仙台郵便局として、郵便・電信・電話・貯蓄・保険、および三県の管理を担当
* 1919年(T8)3月2日の南町大火で焼失
* 1919年(T8)5月12日、仙台郵便局、東一番丁に移転(「仙台市史10 年表」P252、「仙台市史 年表」P98)
* 1920年(T9)8月6日、仙台郵便局、再び南町に再建移転(「仙台市史 年表」P99)(建物は三角屋根が3つになった)
<戦災焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で郵便局、北隣の仙台電話局ともに焼失 / 郵便課は市内霊屋下の仙台逓信講習所に移転、電信課は東北学院専門部礼拝堂地下に移転し、業務続行(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)
<戦後>(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582)
* 1946年(S21)2月9日、郵便局から電信課が分離し、仙台電信局に昇格
* 1946年(S21)12月20日、郵便局は南町に庁舎(木造2階建)再建し移転
* 1949年(S24)6月、逓信省が郵政省と電気通信省に分離 / 仙台逓信局は、仙台郵政局と東北電気通信局に分かれる
* 1955年(S30)11月、仙台郵便局木造庁舎を建て替え、南町通りに新庁舎落成(地上4階地下1階)
* 1957年(S32)11月、仙台郵政局、新庁舎に移転(南町通5番地/鉄筋コンクリート地上6階地下1階)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P240/「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真キャプション/「仙台市史 年表」P80、P98、P99/「仙台市史10 年表」P252、P311/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582
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「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真/再建移転後は、53-95/「目で見る仙台の歴史」P177に、南町通りの仙台郵便局/同P193に、南町通りの仙台郵政局
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郵便局 |
仙台中央郵便局 |
1965年(S40) |
<改称>
* 1965年(S40)11月26日、南町通りの仙台郵便局が仙台中央郵便局と改称
* 1968年(S43)7月1日、郵便番号制、実施
* 1969年(S44)11月25日、郵便番号自動読み取り機、稼働(東北初)
<北目町に移転>
* 1973年(S48)9月15日、南町通から北目町に新築移転
* 1975年(S50)8月24日、仙台中央郵便局で、日曜配達休止実施
* 1987年(S62)4月23日、中央郵便局に、自動引受機登場
* 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P582/「仙台市史 年表」P124、P128/「重訂 宮城県郷土史年表」P654/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P223、P227/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62
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郵便局 |
仙台東郵便局 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)8月8日、開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P627
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郵便局 |
仙台鉄道船舶郵便局 |
1910年(M43) |
木造洋風2階建て
・「重訂 宮城県郷土史年表」P290に
* 1891年(M24)9月、「仙台鉄道郵便電信局」を仙台に設置
* 1910年(M43)4月、「仙台鉄道船舶郵便局」と改称
南町にあった仙台郵便局とは違う(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P28の南町の「郵便局」と建物が違う)(これとは別の場所にあった可能性がある)
【Wikipedia[仙台鉄道郵便局]】 日本の郵便局の種類の一つで、鉄道事業者に郵便車を運行させてこれに職員が乗務し、鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送するとともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する業務を行っていた / 仙台鉄道郵便局はおもに東北地方南部の区間を担当した
* 1910年(M43年)10月、「仙台鉄道船舶郵便局」(一等郵便局)を開局
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「重訂 宮城県郷土史年表」P290 / Wikipedia「仙台鉄道郵便局」
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99-099
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郵便馬車 |
運行開始 |
1884年(M17) |
* 1884年(M17)12月、仙台~東京間の運行開始
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「仙台市史 年表」P85
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郵便番号制度 |
発足 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)7月1日、スタート
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「重訂 宮城県郷土史年表」P641
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ユニオンビール |
発売開始 |
1922年(T11) |
* 1922年(T11)4月3日、日本麦酒鉱泉が発売開始
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キリンHP「日本のビール歴史年表」
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ユニオンビール看板が、53-67、99-026、44-10、99-003に写る
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ユネスコ協会(仙台) |
発足 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月19日、仙台ユネスコ協力会発足
* 1948年(S23)、第2回ユネスコ運動全国大会(於仙台)/ 14回・40回も仙台で開催
* 1951年(S26)、仙台ユネスコ協会と改称
* 1954年(S29)、ユネスコ子供学校創設
* 1955年(S30)、第1回仙台ユネスコ夏期学校開催
* 1957年(S32)、社団法人仙台ユネスコ協会に改組
* 1957年(S32)6月16日、仙台ユネスコ会館落成(現・青葉区大町1-2-2、晩翠草堂の隣) / 2011年の東日本大震災で、ユネスコ会館被災⇒改修不能
これ以降は、「仙台ユネスコ協会HP」の「仙台ユネスコ協会のあゆみ」参照
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「市民の戦後史(仙台市)」P101/仙台ユネスコ協会HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P585
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「市民の戦後史(仙台市)」P101(ユネスコ会館)
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閖上大橋 |
開通 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)9月14日、「閖上大橋」(ゆりあげおおはし)開通 / 県道10号線(塩釜亘理線)の名取川に架かる橋
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「仙台市史 年表」P128
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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養賢堂 |
講堂を県庁舎として使用 |
1871年(M4)~ |
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)1月8日、仙台県を宮城県と改称
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-051、98-052、53-54/地図が98-055
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養賢堂 |
県民錬成道場として使用/ |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月10日、県民錬成道場養賢堂開堂式(学頭 阿刀田令造)
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499
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養賢堂 |
戦災で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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養賢堂 |
国史跡指定 |
1922年(T11)~1951年(S26) |
* 1922年(T11)3月8日、国の史跡に指定
* 1951年(S26)12月26日、史蹟指定を解除(戦災で焼失)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P384、P553
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用語(皇居と宮城) |
用語の使用はいつ始まったか |
1888年(M21)/1948年(S23)7月 |
* 1888年(M21)、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示
* 1948年(S23)7月1日、宮内庁、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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用語(大東亜共栄圏) |
用語の使用はいつ始まったか |
1940年(S15)8月 |
有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる
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「東洋経済新報社 百年史」P647
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用語(東亜新秩序と大東亜新秩序} |
用語の使用はいつ始まったか |
1938年(S13)11月~/ 1940年(S15)7月~ |
・ 「東亜新秩序」は、1938年(S13)11月3日の第2次近衛声明(「東亜新秩序建設」声明)及び同年12月22日発表の「近衛3原則」で使われた
・ 「大東亜新秩序建設」は、第2次近衛文麿内閣の発足時、1940年(S15)7月26日の閣議決定「基本国策要綱」(大東亜新秩序・国防国家建設方針)で使用
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15、P17
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養種園 |
開園 |
1900年(M33) |
<伊達家が開設>
* 1900年(M33)年4月、伊達家養種園、伊達邦宗により開設(保春院前丁) / 品種改良を目的に国内、欧米各地から種子・苗木を求めて品種改良をはかり、仙台白菜の品種としての固定化、ソールダムの紹介普及、めん羊の試験飼育など各種の先駆的試験栽培、飼育を行い、これを県農会や各農家に分譲配布
<仙台市が借受け → 買収>
* 1943年(S18)、戦時中中断したので、仙台市が借受け、本来の研究とともに市立動物園の動物用餌を栽培(動物園は戦争激化によりS20年4月閉園)
* 戦後、「仙台市指導農場養種園」と改称
* 1955年(S30)(またはS31年)12月、仙台市、伊達家から借用していた養種園を買収(4万㎡)、「仙台市養種園」とする / 育種研究を都市近郊農業にふさわしい果樹、球根、花き類に重点を置き、あわせて市民対象の園芸講習会、バラまつり、チューリップまつり開催、球根、種苗の販売、植物ドック開設など
* 1973年(S48)9月1日、養種園に真山青果文学碑除幕式
<仙台市農業園芸センター>
* 1989年(H1)6月17日、仙台市、仙台市養種園を発展・改称した仙台市農業園芸センターを荒井に開設
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206、P658/「仙台市史 年表」P91、P119、P136/「続・ 宮城県郷土史年表」P23/「市民の戦後史(仙台市)」P95(バラ祭り)
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
明治期 |
<明治期>
・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
→ 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
大正~昭和初期 |
<大正期>
・ 1913年(T2)の「仙台案内」掲載店
内藤洋食店(大町3丁目)
・ 1920年(T9)の「仙台商工案内」掲載店
仙台カフェ・パウリスタ(東一番丁)
・ 1923年(T12)、精養軒(東京上野精養軒の仙台支店)が東一番丁弥生軒跡で開業 → 項目「精養軒」参照
・ 1925年(T14)、カルトン食堂開業(大町5丁目)
→ 項目「カルトン食堂」参照
<昭和初期>
・ 1937年(S12)の「仙台商工名鑑」掲載
ミウラ(勾当台通り)、金富士(国分町)、ブラザー軒(東一番丁)、小原(元寺小路)、カフェライト(裏五番丁) → 項目「ブラザー軒」、項目「金富士」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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幼稚園 |
木町通小附属幼稚園/公立仙台幼稚園/東二番丁小附属幼稚園 |
1879年(M12) |
明治12年開園の仙台最初の幼稚園(名称の変遷)
全国で2番目、公立幼稚園では全国1番目
(1) 1879年(M12)6月7日、仙台区木町通小学校附属幼稚園が、定禅寺通櫓丁に開園(仙台で初)
(2) 1984年(M17)、公立仙台幼稚園(仙台区南光院丁) / 園児は、男子29名、女子22名
(3) 1986年(M19)、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる(場所は東二小敷地内)
(4) 1896年(M29)3月28日、東二番丁尋常小学校付属幼稚園、独立して仙台市立幼稚園に
(5) 1916年(T5)4月1日、仙台市立仙台幼稚園、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる
(6) 1939年(S14)年2月28日、東二番丁小学校付属幼稚園改築工事竣工
(7) 1941年(S16)4月、園名を「仙台市立東二番丁国民学校附属幼稚園」と改称
(8) 1945年(S20)7月、太平洋戦争の空襲激化に伴い休園、7月10日の仙台空襲により園舎全焼、一時片平丁小学校に移り、一部を借り受け授業を行う
(9) 1945年(S20)12月、父母有志による「東二番丁小学校父母教師会立幼稚園」として復興、園舎落成
(10) 1974年(S49)3月、仙台市立東二番丁幼稚園として設立認可
(11) 2010年(H22)4月、民営化し、私立幼稚園に改組(場所は東二番丁小学校内で変わらず)
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(1)「仙台市史 年表」P83、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P368/(1)(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P442/(4)「仙台市史 年表」P89/(5) 「仙台市史 年表]P97/(6)「仙台市史10 年表」P295/そのほかは、Wikipedia「東二番丁幼稚園」(2016年4月)
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幼稚園 |
仙台幼稚園(私立) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)5月、仙台幼稚園を東三番丁に設立(写真23-01に「宮城婦人会附属」の字あり)(「仙台年表」P180)
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「仙台年表」P180(出典:仙台市教育会の「仙台郷土史」、S8刊)/明治42年の「仙台市統計一班」
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23-01
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幼稚園 |
仙台市内 |
明治42年当時 |
明治42年の「仙台市統計一班」(国立国会図書館オンライン 書誌ID 000000454715)によると、明治42年当時の仙台市内の幼稚園は4園
・ 市立仙台市幼稚園(東二番丁、明治12年創立)
・ 私立宮城幼稚園(東二番丁、明治36年創立)
・ 私立仙台幼稚園(元寺小路、明治38年創立)
・ 私立青葉幼稚園(東一番丁、明治42年創立)
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明治42年の「仙台市統計一班」
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翼賛壮年団 |
仙台市で結成 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)1月16日、大日本翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月16日(3月16日?)、宮城県翼賛壮年団結成、
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P304/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P488
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澱橋(広瀬川) |
鉄橋架橋/新たな橋架設 |
1892年(M25)/1951年(S26)? |
* 1889年(M22)9月10日・11日、大雨で広瀬川が氾濫し澱橋・大橋・広瀬橋が流失
* 1892年(M25)10月11日、大橋とともに鉄橋に架け替えられる
* 1951年(S26)11月、新たな橋に架け替え / 橋長137m、橋幅12m
* 1961年(S36)11月28日、新たな澱橋が完成、渡り初め式
(「重訂 宮城県郷土史年表」P602 / S26年架け替えの橋と混同か?)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412~413/「仙台市史 年表」P87、P88/「重訂 宮城県郷土史年表」P602
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「目で見る仙台の歴史」P130に、「澱橋」(撮影年代不詳)
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ライオンズクラブ |
仙台 |
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* 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑を仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1967年(S42)、市民記念植樹実施(篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈)(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
* 1968年(S43)4月13日、勾当台公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1970年(S45)6月5日、全国大会を仙台で開催(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
* 1978年(S53)5月2日、「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」を、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建(「続・宮城県郷土史年表」P81) / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている →「政宗卿騎馬像」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P639、P661/「続・宮城県郷土史年表」P81
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ラジオ体操会 |
仙台の発会式 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)8月1日、全国ラジオ体操会始まり、仙台では東六番丁小で発会式
* 1951年(S26)5月6日、NHK、戦後につくられた新ラジオ体操初放送
* 1954年(S29)5月、宮城県ラジオ体操の会発足
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/[NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P30
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陸海軍の工場(宮城県内) |
第一海軍火薬廠 |
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<海軍火薬廠>
* 1938年(S13)1月9日、海軍火薬廠を柴田郡船岡町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1938年(S13)1月9日、海軍軍需部特殊工場、柴田郡船岡村に設置 (「仙台年表」P208)
* 1939年(S14)8月1日、船岡村に海軍火薬支廠設置 (「仙台年表」P209)
* 1939年(S14)、船岡の第一海軍火薬廠完成。 2万坪(約6.6ha)あり東北最大の火薬製造工場(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
・ 海軍は、平塚に第二、舞鶴に第三火薬廠を持っていた
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)
・ 跡地は、陸上自衛隊、仙台大学が使用(2020年現在)(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157、P173)
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「仙台年表」P208、P209
/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P704/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156~157、P173
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陸海軍の工場(宮城県内) |
多賀城海軍工廠 |
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<海軍工廠>
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠、開庁式(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠開庁式 (「重訂 宮城県郷土史年表」P492)
* 旧多賀城村のほぼ4分の1に当たる500haを強制買収して建設
南地区の機銃部は、ゼロ戦の20ミリ機銃弾、北地区の火工部では爆弾、焼夷弾、親子爆弾、照明弾など
* 1945年(S20)3月から、松島町高城地区の丘陵地に地下分工場を建設中に敗戦(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P173)
「戦争のころ 仙台、宮城」P159~160に、土地所有者からの強制的な用地取得と移転の強要、土木作業員には宮城刑務所の服役囚や強制連行された朝鮮半島からの労働者(728人)も含むこと、残酷な強制労働につき記述あり
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P711/「重訂 宮城県郷土史年表」P492/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P159~160、P173
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陸海軍の工場(宮城県内) |
陸軍造兵廠(東京第一陸軍造兵廠仙台製造所) |
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<陸軍造兵廠>
* 1941年(S16)4月5日、陸軍造兵廠を仙台市原町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
<編者注>陸軍造兵廠の正式名称は「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」(場所は、戦後の陸上自衛隊苦竹駐屯地)
* 1941年(S16)4月5日、原町陸軍工廠の新設と呼応し、原町工業都市建設土地区画整理(520ha)認可 (「重訂 宮城県郷土史年表」P432)/ ただし整備は戦後に持ち越された / 関連して、S16年に仙塩街道(仙台~塩釜)開通(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365)
* 1942年(S17)から稼働、4つある工場では戦闘機の銃弾や薬きょうの箱詰、旋盤、プレス加工。 のち幸町にも第二工場を建設(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、最盛期にはそれぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P706/「重訂 宮城県郷土史年表」P432/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P173
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍地方幼年学校/仙台陸軍幼年学校 |
1897年(M30)/1920年(T9)~1924年(T13) |
幼年学校は、年少段階から陸軍の幹部将校候補を養成する教育機関(場所は榴ヶ岡)
* 1897年(M30)9月1日、「仙台陸軍地方幼年学校」が榴ケ岡に開校 / 14~15歳の少年が受験
* 1920年(T9)8月10日、「仙台陸軍幼年学校」に改称
* 1924年(T13)、軍備縮小計画により廃止
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」が復活、開校式(場所は、三神峯)
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「仙台市史 年表」P90、P99/「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 特別編4 市民生活」P298
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地図は、98-111,98-113/「新・目で見る仙台の歴史」P135(仙台陸軍地方幼年学校の門標)
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍幼年学校、三神峯に復活 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」復活、開校式
榴ケ岡にあった「仙台陸軍幼年学校」は1924年(T13)に廃止されるが、S13に復活(校舎は三神峯に設置)
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「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 年表」P99、P109
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍教導学校 |
1927年(S2)~1943年(S18) |
* 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた
* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍予備士官学校 |
1938年(S13)~1939年(S14)/1943年(S18)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)8月13日、仙台市川内の陸軍教導学校内に「仙台予備士官学校」設置、開校式 / 1939年(S14)3月に盛岡近郊へ移転
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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リサイクル |
仙台の事例 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)5月25日、仙台市に、空き缶空き瓶選別センター発足
* 1984年(S59)6月、使用済み乾電池の回収箱、店頭に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P177、P178
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流行歌「ミス仙台」 |
発売 |
1936年(S11)夏 |
* 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。
(「番丁詳伝」P197)
<歌詞>
一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川
若きひと夜の恋ごころ
仙台 仙台 なつかしや
二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露
君と歩みし思い出や
仙台 仙台 なつかしや
三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁
三味の音いろも泣きぬれて
仙台 仙台 なつかしや
*「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
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「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34
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龍宝寺の木造釈迦如来立像 |
国の重要文化財に指定 |
1903年(M36) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
木造釈迦如来立像は,京都嵯峨の清涼寺にある木造釈迦如来立像(国宝)の模刻像である。清涼寺の釈迦如来像は,東大寺の僧ちょう然が宋に渡り,釈迦の在世中にその姿を生き写しにして製作されたと伝えられる印度伝来の像を模して造らせ,寛和3年(987)に日本に持ち帰ったもので,いわゆる三国伝来の霊像である。鎌倉時代にはこの像を模刻して信仰することが全国的に盛んになった。龍宝寺の釈迦如来像もこうした模刻像の一つであるが,原像に忠実に倣ったものであり,鎌倉時代の早いころの作とされる。なお頭部内側に大永3年(1523)の修理銘がある。縄紐を同心円状に束ねたような頭髪,胸部の同心円的な衣文(えもん)の表現,両股の部分のY字型の扱いによくその異国風の特徴がみられる。この像は,もとは栗原郡金成の福王寺にまつられていたが,元禄年間(1688~1703)に四代藩主伊達綱村の命によって龍宝寺に移されたという記録がある。ヒノキ材 寄木造 像高160.3cm (龍宝寺所蔵)
* 1903年(M36)04月15日、国の重要文化財に指定
・ 「龍宝寺」は真言宗御室派別格本山で、青葉区八幡4丁目にある
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仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」
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「市民の戦後史(仙台市)」P87
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輪タク |
全盛 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、輪タク全盛時代、全国で1万3000台
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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16-27、53-11、53-81
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霊園/墓園 |
北山霊園 |
1948年(S23)/1951年(S26) |
仙台市が、市北部北山町の高台に面積5.3haの霊園を造成し、戦災を受けた元寺小路地区の4寺社の墓地(0.86ha)を移転するとともに、同墓園周辺地区を拡張し市営墓地として市が経営
* 1948年(S23)10月、仙台市が、元寺小路や東三番丁の墓地を移転させるため造営開始
* 1951年(S26)10月に一部完成し、墓地移転が始まる / 戦災復興整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に、新造成した北山霊園の一部を、墓地用地(5.7ha)として配分
* 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓地1648基移転終了、無縁墓地600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨
* 1956年(S31)6月、残りの用地(7.8ha)は市営墓地とし、市民に開放
・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333、P743~744/「仙台市史 年表」P115、P117
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P743(北山霊園)/「目で見る仙台の歴史」P171(北山霊園の空襲犠牲者慰霊供養碑)/同P178(霊園)
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霊園/墓園 |
葛岡墓園(葛岡墓地公園) |
1969年(S44) |
新寺小路地区の都市改造事業(区画整理)による移転墓地 / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始
* 1969年(S44)3月、第一期工事分(約38.2ha)がほぼ完成し一部墓碑の移転開始
* 1972年(S47)、仙台市葛岡斎場が開場
* 1978年(S53)4月、仙台市葛岡墓園が一般に開放
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P386、P744/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127/「仙台市史 年表」P123/Wikipedia「仙台市葛岡墓園」/「続・ 宮城県郷土史年表」P80
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「市民の戦後史(仙台市)」P211(造成すすむ葛岡墓地公園)
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冷害・凶作 |
冷害年の稲作減収率(宮城県内) |
明治~1944年(S19) |
北海道・東北の明治~昭和19年の主な冷害年の「宮城県の米減収率」
(「図説:東北の稲作と冷害」の棒グラフより読み取り)
M35年(50%位)、M38(80%余)、T2年(50%余)、
S6年(10%以下)、S9年(15%位)、S10(20%弱)、S16年(40%弱)
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東北農業研究センター水稲冷害研究チーム「図説:東北の稲作と冷害」www.regai.affrc.go.jp/zusetu/reigai/l より要約
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冷害・凶作 |
明治年間 |
1869年(M2)
1874年(M7)
1897年(M30)
1902年(M35)
1905年(M38)
1910年(M43) |
* 1869年(M2)秋、冷害のため凶作となる
* 1874年(M7)、冷害のため凶作となる
* 1897年(M30)秋、冷害と水害のため凶作となる。
10月16日、仙台市会、凶作のため臨時米穀売買所開設を決議
10月27日、市が臨時米穀売買所で外国米の低価販売開始
* 1902年(M35) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治35年」へ
* 1905年(M38) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治38年」へ
* 1910年(M43)、この年水害のため凶作となる
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P305(図310)は、明治30~39年の宮城県の米収穫量(グラフ)
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「仙台市史 年表」P79、P81、P90、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P304
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冷害・凶作 |
明治35年 |
1902年(M35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P358より>
「明治35年は春からヤマセ(北東の冷たい風)が吹き、7月中旬から8月中旬にかけて雨が多く気温の低い日が続いた。 米の収穫高は予想を上回る減収で、1897年から1901年に至る過去5年間の平均収穫高の32%にすぎなかった。」
* 1902年(M35)、冷害のため凶作となる
(仙台市会、凶作のため外国米売渡手続を決議)
(外国米を698戸に配布)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305、P358/「仙台市史 年表」P92
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冷害・凶作 |
明治38年(その1) |
1905年(M38) |
明治38年凶作
(1)「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~307より
1905年(M38)の凶作は「東北三県凶作」と呼ばれ、岩手県・宮城県・福島県の三県に例年の作況の1割にも満たない甚大な被害をもたらした。 仙台市もあまりの被害の大きさに有効な救済策をとることができなかったといわれる
* 1905年(M38)夏、冷害で米は大凶作となる。(宮城県87%減、福島県76%減、岩手県66%減) / 天明・天保以来の大凶作といわれた
・ 宮城県の窮民調査で、3人に1人が窮民(28万8千人) / 米作地帯の栗原郡で44%以上、遠田郡で76%、仙台市では7%(6500人)、宮城郡25%(1万8000人)、名取郡34%(2万1200人)が窮民
・ 1904年(M37)にはじまる日露戦争で、特に農村部では働き手が兵士として戦場に動員されたため家族労働力に頼る農家経営が困難となる事例が次第に増加していった
明治38年の5月、日本海海戦の勝利が伝えられた頃、東北三県を冷害が襲い始めた。
・ 8月~9月、ヤマセと雨天・日照不足
・ 仙台の8月の平均気温、前年より3.8度低い
・ 日照時間も極端に少なく、特に出穂期を迎える8月下旬は連日ほぼゼロの日が続いた
・ 農作物の生育は極端に悪く。特に稲が実を結ばずに米の収穫が激減した
・ 米価高騰で市民生活に打撃(6月はじめ、1升13銭 → 8月末に18銭 → 11月に20銭超え)
・ その他の影響(牛馬家畜減少、児童出席率低下、退学児童増、教科書寄贈運動、教員給与未払い、ほか)についても記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~P307
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冷害・凶作 |
明治38年(その2) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P358の「出稼ぎと身売り」より
<凶作、農村の窮乏>
・ 「明治35年の凶作の痛手を回復しえないまま、明治38年に、天明・天保以来の大凶荒と言われた凶作が東北地方を襲い、特に宮城・福島・岩手の3県で大きな被害を出した。米収穫高平年に比べ、福島は24%、宮城14%、岩手34%」
・ (明治三十八年宮城県凶荒誌)「盛夏尚綿布を着け気候の異常に一種の畏怖の念懐きて憂慮せしもの、九月下旬に至りては至る処収穫皆無を唱え、米価の騰貴甚だしき加ふると共に、窮民の惨状は見るに忍びざるものありき」
・ 下級農民の多くは、米の収穫どころか、労働の途も絶たれ、飢餓寸前に追い込まれるという状態であった / 特に山間の村落の住民は、木の実を拾い草の根を掘って食糧とするが、積雪の季節に入るとそれもままならず、救いを待つしかなかったのである
・ 中産農家の土地家屋に身分不相応の負債が生じると、移住者として郷里を捨てる動きがみられる。 / 働く場を求めて、宮城県内から県外への移住件数が明治38年に5220人、39年に1万3312人、40年に1万6212人(3年間計、3万4744人) / 仙台市でも、65人、315人、837人
・ M35年の仙台市内貧民調査表
<救済事業>は、耕地整理や土木工事の執行、里道改修、ため池修繕、用水路改修、上水工事および廃沼田地開墾、町有林開墾、河川改修、堤防修繕、道路改修
<児童救済>では、岡山孤児院石井十次来仙し養育困難児143人を一時引き取りや、メソジスト教会のフェルプスらが「東北育児院」を開設(同年11月3日に、仙台育児院と改称)
<身売り>
・ 凶作地に於ては、婦人を欺き連れ出し、あるいは本人が知らないうちに職工や売春婦にされ、不本意な労働を強いられるということが起きている
・ 日露戦争下での経済不況は賃金の低落が著しく(中略)職を失った場合には、生活の困窮は目も当てられないというありさまがこのような事態をも生じさせたといえる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P358~359
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