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出典/参考資料 |
関連映像 |
戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
戦後 1946年(S21)~1950年(S25) |
・ 戦後、繊維製品も進駐軍の統治下におかれたいたが、1946年(S21)9月、GHQが復旧を認める
・ 1945年(S20)、繊維製品1人あたり消費量は、1930年(S5)~1934年(S9)の12.6%
・ 1946年(S21)3月、衣料切符制度廃止し、4月から割当購入制度
・ 1947年(S22)4月1日、国内向け繊維に一応の見通しが得られ、衣料点数切符制度を復活 / 一人1年12点(背広1着が70点)
・ 1929年(S24)6月、衣料切符1人30点に(10点は純綿生地、20点は人絹スフ)、絹製品は自由販売に
・ 1930年(S25)1月、繊維製品の価格統制撤廃(衣料事情が急速に好転)
・ 1930年(S25)9月、衣料切符制廃止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P54~55
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」などより |
1944年(S19)~1945年(S20)敗戦まで |
・ 1944年(S19)1月、宮城県第一高等女学校、モンペ、ズボン姿を制服に(仙台のモンペ時代に先べん)
・ 1944年(S19)2月6日、政府、女学生の戦時標準服を制定 / 上下衣に分かれ、裾と膝を皮紐で締める / 上衣は婦人標準服乙型、下衣はモンペ
・ 1944年(S19)4月、農林省、野生の苧麻(チョマ)、桑皮、竹の幹などで衣料品70万着製造
・ 1944年(S19)4月19日、宮城県経済部、繊維資源供出として、桑皮、生苧、麻、竹皮、藺草(イグサ)、ひま、柳枝、蒔枝、葛、かわむぐら、蒲類の大増産運動を広げると発表 / 農業会、翼賛壮年団、中等学校、国民学校、青少年団、大日本婦人会を総動員して
・ 1944年(S19)5月21日、仙台市街地で、警官や警防団員が通行人の服装チェックし、注意する(河北新報記事)
・ 1944年(S19)、衣料切符支給さらに減る / 市街地では、30歳以上は年40点、30歳未満は年50点と、従来の約半分に
・ 1944年(S19)、足袋と靴下の配給は、一人1足、男性用パンツは13人に1人しか行き渡らず
・ 1945年(S20)、衣料切符、新発行停止
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「仙台市史 特別編4市民生活」P53~54/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P123
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モンペ姿は、16-72、41-02、76-10、16-10など(写真データベースで、キーワード“モンペ”で検索) / 「仙台市史 特別編5 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち)
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戦時衣料 |
戦時衣生活簡素化実施要項 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月4日、戦時衣生活簡素化実施要項を閣議決定
<男性>は、新規仕立ては「国民服乙号」またはそれに準ずるものに限定(茶褐色以外も可)/ 背広、ダブルの外套、合着の新規仕立ては禁止
<女性>は、婦人標準服の普及が図られた
・ 和服は、<男性>は筒袖、<女性>は元禄袖で、長袖は禁止
<戦後の変化>
* 1947年(S22)、この年、モンペ姿が減り、スカートが増加(「菅家年表」P41)
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国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1943年(S18) |
・ 1943年(S18)2月1日、新衣料切符(全衣料の点数を25%引上げ)
・ 1943年(S18)2月、商工省、決戦下衣料生活最低標準案
・ 1943年(S18)5月30日、大政翼賛会が、衣生活の刷新、新調の見合せ、更生利用運動を全国展開 / 短袂の実行、国民服着用、モンペ着用、衣類融通交換奨励
・ 1943年(S18)6月3日、政府、衣料簡素化実施要綱、閣議決定
・ 1943年(S18)8月10日、商工省、長袖、長帯の生産を禁止
・ 1943年(S18)8月31日、大日本婦人会、9月以降の毎月8日を「短袖、モンペの日」と決め、「決戦です。すぐ長袖を切りましょう」が合言葉
・ 1943年(S18)12月5日、東北帝国大学、学生に新調の服を禁止 / やむを得ない場合は、男子は国民服乙型、女子は婦人標準服を調整と決定
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P52~53
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衣料切符は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P52/衣料点数早見表(S18年改正時)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P53
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1942年(S17) |
・ 1942年(S17)2月1日、衣料切符制度実施
(1月中は、全衣料品の移動禁止し、在庫品調査)
年間に、市では1人100点、郡部は80点
・ 宮城県、繊維製品の取引団体を指定
三越、藤崎や繊維製品関係小売商業組合などの諸組合
指定取引団体のみが、県に新しく設立された繊維製品
統制会社から、配給を受けて消費者の手に渡す
・ 1942年(S17)2月、厚生省、婦人の標準服(和・洋)を指定
甲型、乙型、活動着も甲型と乙型
他に下着と付属品
・ 1942年(S17)2月4日、文部省、青年学校生徒の制服制帽を、前年制定した中学校の制服と同型とした
・ 1942年(S17)年、外出時のゲートル使用が強制され、
ゲートル姿や白はちまき姿が街にあふれるようになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51~52
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婦人標準服は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図56)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1941年(S16) |
・ 1941年(S16)4月、中等学校新入生の制服改訂、制服新調の際は
男子は、国民服と戦闘帽
女子は、セーラー服を廃止し、白い覆いをつけたヘチマ型のカラー、ベルト付のジャケットとスカート
・ 1941年(S16)5月、国民学校児童に抽選で学童服や靴下を配給
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51
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戦時衣料 |
国民服 制定 |
1940年(S15) |
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」(勅令)公布
・ 戦時下の衣装簡素化のため制定された
・ 男性用で、軍服をモデルにしたカーキ色(国防色)の服(5つボタン)
・ 「甲号」は、襟が立折襟式開襟で詰襟と開襟の両方で着られる/「乙号」は、襟が立折襟
・ 一着で仕事着、日常服、礼服を兼用できた(儀礼章をつければ礼服にも使用できた)
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仙台市史 特別編4 市民生活」P314/毎日新聞社「昭和史事典」P132/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27
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60-40/乙号は、24-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P50(国民服、カラー)
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戦時衣料 |
国民帽 制定 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」公布
・「烏帽子型」と「戦闘帽型」(陸軍略帽型)の2種あった
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毎日新聞社「昭和史事典」P132
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1940年(S15) |
・ 1940年(S15)1月、女学生服の日本化運動(腕と脚を隠す)
・ 1940年(S15)3月、紙糸を使った洋服登場
・ 1940年(S15)7月7日、七・七禁令(奢侈品等製造販売禁止規則) / 洋服の最高価格制限など
・ 1940年(S15)9月13日、中学校の制服、男子は国防色、女子は紺色
・ 1940年(S15)11月2日、国民服令が勅令で定められる / 型は4種 / 上着1号(甲号)は三揃背広を軍服化、2号は1号に準じた型、3号は一般背広の裁断によるもの、4号(乙号)はステンカラー5つボタンの軍服調のもので運動・作業用 / 上着も中衣も軍服に日本調をとりいれ動きやすい形にした
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50~51
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国民服は、60-40、乙号は、24-01、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図55)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1939年(S14) |
・ 1939年(S14)3月、織物用原紙として紙糸の利用はじまる
・ 1939年(S14)4月24日、国産羊毛の購買禁止 / 洋服はすべてスフ時代に
・ 1939年(S14)8月、商工省による染色価格の統制により、男子用服地はカーキ色を主とした濃紺あるいは黒の3種に、女子用服地は柄物減少し10種類以内に
・ 1939年(S14)11月、国民服制定権限が陸軍被服廠に移り即時実行された
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1938年(S13) |
・ 1938年(S13)3月1日、県糸配給統制規則公布 / 切符制の始まり
・ 1938年(S13)6月29日、線製品の製造販売を制限 / 主婦が綿製品の買いだめしたため、商工省が一人1品を厳命
・ S13年11月、国民精神総動員中央連盟は、カーキ色のチョッキ、ネクタイなしの国民服の着用を提唱
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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戦時衣料 |
衣料品購入価格高騰 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
<公定価格>
・ 1937年(S12)→1945年(S20)7月に、2倍近くに
<ヤミ価格>
・ 晒(さらし)木綿は、S18年12月に公定価格の6倍、S20年7月には更に8.5倍に(衣料切符を持っていても品不足で買えず、ヤミ市場では高値で購入困難)
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「仙台市史 特別編5 市民生活」P54
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1937年(S12) |
・ 1937年(S12)、陸軍被服協会、反毛報国運動展開(毛織物廃品物の再生利用)
・ S12年、綿織物にスフ混用規制公布 / 軍需・輸出品以外は、3割以上のスフ混入義務づけ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1936年(S11) |
・ 1936年(S11)、東日本洋服組合、ステープル・ファイバー(スフ)の利用を決議(オーストラリアとの間に通商制限問題が起こり、ラシャの原料でもある羊毛の輸入が制限されたため、その代用として)
・ 1936年(S11)?、国会で黒無地の背広を着るよう申し合わせ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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戦時衣料 |
中等学校以上の制服 |
1935年(S10)~1944年(S19) |
* 1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506)⇒ この項、S10年が正しいのか要検証
* 1941年(S16)4月、中等学校以上の制服を統一、国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1943年(S18)6月4日閣議決定「戦時衣生活簡素化実施要項」で、新規仕立ては、
<男子学生生徒>は、「国民服乙号」、外套は「国民服用外套」に限定
<女子学生生徒> 装飾部分の除去に考慮し、専門学校以上は、「婦人標準服」
* 1944年(S19)2月8日、女学生の戦時型制服決定、下衣(ズボン式)の膝、足首を皮紐で締める(菅家年表P32)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506/国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/「仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P32
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戦時衣料 |
モンペ、防空頭巾、戦闘帽、ゲートル、髪型 |
1934年(S9)~1942年(S17) |
* 1934年(S9)6月21日、陸軍省が、陸軍軍服の色を「国防色」と命名し、被服統一運動を開始(菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15 / 「日録20世紀 1934年」P16)
* 1938年(S13)1月、全国の女学校で生徒の断髪を禁止(菅家年表)
* 1938年(S13)、女子のモンペ姿が多くなる(菅家年表)
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1938年(S13)7月15日、以後、男子は丸坊主、女子はパーマネントはできず(菅家年表)
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを禁止(菅家年表)
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会で生活改善刷新案決定(学生の長髪禁止、パーマネント禁止)(菅家年表)
* 1939年(S14)、この年、男はすべて国民服、カーキ色、5つボタンとなる(菅家年表)
* 1940年(S15)12月、この頃、時局の一反映として女学校生徒のモンペ姿が登校にみられ人の注目をひく(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
* 「昭和15年12月、女学校生徒のモンペ姿が通学にみられる」(「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表)
* 1940年(S15)9月6日、大日本理容連盟、標準髪型以外は受付を断ることにした(「菅家年表」P24)
* 1940年(S15)11月27日、中等学校以上の制服を統一、昭和16年4月から国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1941年(S16)、この年、防空ずきん、もんぺ、ゲートルなどの非常時服装が目立つ(「菅家年表」P27)
* 1941年(S16)、女性のモンペ姿が急増(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1942年(S17)2月19日、婦人国民服(標準服)決定、6種(「菅家年表」P28)
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「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15、P20~28、P31/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27に「戦時中の衣服」につき記述あり/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち/同P54(S18年、モンペ姿で電報配達奉仕に出発する女学生)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー)
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