項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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新常盤町(遊郭) | (2)移転開業 | 1894年(M27) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より> * 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業 ・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用 ・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた ・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」 ・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった ・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数 1892年(M25)、192人・21軒 1900年(M33)、325人・32軒 1901年(M34)、363人・35軒 ・ 軍人の利用には、割引があった ・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人) <娼妓> ・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった ・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった ・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた <娼妓の生活収支> ・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた <娼妓になる原因> ・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため ・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった <宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)> ・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9% * 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退 * 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391 | 目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿) |
新常盤町(遊郭) | (1)新常磐町以前 | 明治初期~1894年(M27) |
<遊廓> 「くるわ」(廓または郭と書く)は城郭のように周囲を石や土で覆い、塀などをめぐらせた一画で、ここに遊女や関係の業者だけを集中的に存在させ、官許の遊女町とすることがあった / 遊女屋は郭外での営業を禁止 <公娼と私娼> 「公娼」は、遊郭で働く法律で許可された売春婦で、鑑札(営業許可証)定期検診が義務付けられた / 多くの場合、貧民の子女が、貧しさの為に、親に手渡されるまとまった前渡し金によって、年季を定められ売春生活を余儀なくされた / 「私娼」は、許可されていない売春婦 ・ 藩政時代は、仙台城下における遊女屋営業は禁止 ・ 明治維新期、薩長軍相手の遊女屋(妓楼)が虎屋横丁に開業 * 1869年(M2)、国分町を中心に、遊女屋28軒が官許を得て開業開始/ 中正楼(ちゅうせい)楼、新盛楼(しんせい)、舞鶴楼(まいづる)、南幸楼(なんこう)など * 1878年(M11)9月15日、国分町遊郭の妓楼(貸座敷)15軒が、片平丁河岸(常盤町、のちの元常盤町)に移転完了 * 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業 (新常盤丁の名称は1894年(M27)7月15日に市会の決議による / 戦後は旅籠町と改名した) / 常盤町の川向かいに川内の第二師団兵舎があり、若い兵士の士気に影響ありと軍の圧力があり、県は移転期限をきめ移転を強要 <新常磐町(遊郭)の沿革> 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123、「仙台市史 特別編4 市民生活」P389に、記述あり <編者注> 常盤町、新常盤町の表記は、文献により「町」と「丁」の二通りあり <廃娼運動> 明治期~昭和戦前期の宮城県内の廃娼運動については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P392~393に記述あり |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123/「仙台市史 年表」P82、P88、P89/「重訂 宮城県郷土史年表」P330/「仙台市史 特別編4 市民生活」P393、P392~393 | 99-033、98-079/「目で見る仙台の歴史」P118に、国分町の貸座敷「南幸楼錦絵」(のち明治4年に中正楼)と「常盤町の妓楼街」 |
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