項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
---|---|---|---|---|---|
定禅寺通り |
戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった * 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹 |
「仙台市史 続編1」P462 | |||
定禅寺通り | 戦後の拡幅工事完了 | 1967年(S42) |
* 1894年(M27)7月15日、仙台市会、市内の新道の名称を決議(定禅寺通、新常盤丁、桜小路など) * 1954年(S29)4月、定禅寺通り、広瀬通りとも、東一番丁付近の拡幅が完成 * 1967年(S42)1月25日、定禅寺通り・広瀬通りとも全線開通 |
「仙台市史 年表」P88/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9 | |
定禅寺通り | ケヤキ植樹 | 1958年(S33) |
<グリーンベルトの樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P254~255) ・ 両側歩道にはケヤキを植樹したが、中央分離帯(幅12mのグリーンベルト)の樹種は、高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違 ・ 助役は、サルスベリかモミジを指示、課長は「大きい街路樹によって勾当台公園と西公園を結ぶ緑のトンネル」にしたい ・ 岡崎市長時代には結論が出ず、次の島野市長時代にケヤキと決まった *********************************** 1958年(S33)に初当選した島野市長の「西公園と勾当台公園を結ぶ大樹林帯にしよう」という意向で、定禅寺通りにケヤキ植樹 * 1958年(S33)、ケヤキ植樹を開始(中央分離帯に76本、歩道を含めて計157本) * 1958年(S33)末までに植え終わる |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P254~255/「仙台市史 年表」P120/「戦災復興余話」P87 | 22-06/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(S29~33年頃)/「目で見る仙台の歴史」P188(中央分離帯に植木植樹したばかりの頃) |
定禅寺通り | 彫刻のあるまちづくり | 1979年(S54)~ |
<「仙台市彫刻のあるまちづくり」事業で、中央分離帯(定禅寺通緑地)に彫刻配置> * 1979年(S54)10月3日、イタリアのエミリオ・グレコ作、踊り子像「夏の想い出」除幕(第1期作品のひとつ) * 1982年(S57)9月22日、イタリア彫刻家ブェナンツォ・クロツェッティー作「水浴の女」、除幕 * 1986年(S61)10月17日、マンズー作、彫刻「オデュッセウス」除幕 |
「続・ 宮城県郷土史年表」P102、P151、P224 |
全1ページ中、1ページ目 (総数:4件)