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出典/参考資料 |
関連映像 |
戦災復興都市計画事業 |
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計画策定 |
<仙台空襲で壊滅的被害>
* 1945年(S20)7月10日、米軍機による仙台空襲で、仙台市中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失 / 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」(仙台市開発局『仙台市戦災復興誌』 1981年)
・ 焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う(「戦争のころ 仙台、宮城」P220)
→ 当サイトの項目「仙台空襲」参照
<県による復興計画>
* 1945年(S20)12月、宮城県復興建築課を新設、復興計画始動
・対象地域
① 戦災に遭った仙台市中心部 ②川内の旧陸軍用地 ③一部が戦災に遭った米ケ袋
川内は、米軍の要求で中止、米軍に接収され、「キャンプ・センダイ」用地となる
米ケ袋も見送られて、事業が行なわれたのは市中心部だけ
・事業総面積 290ha(皇居の2.5倍)
・区画整理方式のため、仙台の減歩率25%(自分の土地の4分の1を事業のため提供)
<仙台市が県の計画を引き継ぐ>
* 1946年(S21)4月、仙台市復興委員会発足(市議24人全員、学識経験者20人)設置
・23人の常任委員会で週1回のペースで街路、公園の予定地を訪れ検討し決定(例:東一番丁通りは8mを15mに拡張)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220、P250~251
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戦災復興都市計画事業 |
制度、計画など |
1946年(S21)~1961年(S36) |
* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興都市計画基本方針決定
* 1946年(S21)4月15日、仙台市復興委員会開催(学識経験者と市会議員から委員64人)
* 1946年(S21)4月20日、戦災復興院特別建設出張所設置
* 1946年(S21)5月、仙台市は「戦災区域」の指定をうける
* 1946年(S21)5月5日、仙台市役所復興局(2部7課)設置
* 1946年(S21)5月9日、仙台都市復興都市計画土地区画決定
・424haの土地区画整理、23路線(2万4000m)の都市計画道路、13か所(51.7ha)の公園緑地、墓地計画、学校移転、無電柱街路計画など
・S26年とS29年に事業区域が縮小されて、最終的な施工地区は市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)に変更された
* 1946年(S21)8月15日、戦災都市における建築物の制限に関する勅令を仙台市に適用
* 1946年(S21)10月9日、特別都市計画法、仙台市に適用
* 1946年(S21)10月10日、仙台市役所に仙台復興局を置き復興計画方針決定(五か年計画の樹立)
* 1946年(S21)10月、戦災跡地ガス供給管被害箇所復旧
* 1947年(S22)2月17日、仙台特別都市計画事業復興土地区画整理及び執行年度割決定
* 1947年(S22)6月4日、戦災復興院宮城建築出張所設置
* 1947年(S22)6月11日、仙台都市計画公園変更決定
* 1947年(S22)12月12日、仙台復興都市計画土地区画整理委員選挙
* 1947年(S22)12月31日、仙台市に適用の都会地転入抑制緊急措置令解除
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P90、P315~316/「仙台市史10 年表」P312~314、P316~P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P513、P519、P600/「仙台市史 年表」P121
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戦災復興事業 |
都市計画道路 |
1946年(S21)~ |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P251~252】
* 1946年(S21)11月、中心部の19本の都市計画道路、国の復興院が承認
・ 当初計画は、青葉通り、広瀬通りともに幅員50m → 予算の関係で、50m幅は青葉通りの仙台駅前から東二番丁まで、それ以西の青葉通りと広瀬通りは幅36mに変更(これまでの最大幅員は南町通りの23mだった)
・ 都市計画道路での正式名称は、青葉通りは「仙台駅-川内二の丸隅櫓線」、広瀬通りは「元寺小路-立町・川内線」
* 1947年1月、河北新報社が愛称を募集し、応募6000通以上から、「青葉通」「広瀬通」「西公園」「中央公園」と決定 / 中央公園は定着せず、「勾当台公園」が定着
* 1950年(S25)、青葉通り、広瀬通り完成したが、まだ未舗装で、強風に砂塵舞い上がり、雨降れば泥んこ道となるので「青葉砂漠」「広瀬たんぼ」と悪口を言われた
・ 東二番丁通りも幅員50m(江戸時代以来幅員は8mだった) 6倍以上に拡張したのは防火帯とするため(江戸時代から昭和30年代まで市中心部で、蔵王おろしの西北風邪が吹く12月~3月の間にたびたび大火があった)
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324】
<幹線街路計画>
* 1946年(S21)11月決定、25路線、幅員(50~15m)、延長5万894m(うち、復興事業関係は23線)
* 1954年(S29)、16路線(1万9103m)に計画変更
→写真データベースの98-026に「一覧表と一覧地図」(路線名、起点、終点、幅員など記載)
* 16路線中、清水小路光禅寺線以外は、S35年度までに完了
・ その後、清水小路光禅寺線は起点部分221mを除外
<グリーンベルト設置>
・ 幅員27m以上の街路に植樹帯造成
・ 7路線(青葉通、東二番丁線、細横丁線、長町堤町線、定禅寺錦町線、狐小路連坊小路線)は車道の両側または中央にグリーンベルト(木と芝生)
・ 11路線の一部歩道に街路樹植栽(上記7路線+多門通常盤丁線、北目町通線、北二番丁線、勾当台通)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P251~252/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324
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・S29年に決定した「戦災復興事業の都市計画街路一覧表と一覧図」 →写真98-026
/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅された細横丁(晩翠通り)
/「市民の戦後史(仙台市)」P60(拡幅工事中の細横丁)
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戦災復興事業 |
公園緑地造成 |
~1961年(S36) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P252~253】
・ 当初計画は、11万坪(市中心部の1割)
・ 予算の関係で、14か所から9か所(計8万5000坪)に変更
・ 実現しなかったのは、県庁周辺の大公園化(勾当台通り-錦町-外記丁-北一番丁)と勾当台公園と西公園を結ぶ60m幅の緑地帯構想
・ 定禅寺通は幅員46mとし、中央に12m幅の緑地帯が設置された
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330】
・ 戦災復興区画整理事業により13の公園・緑地が造成された / 勾当台公園(2.4ha)、西公園(11.4ha)、青葉山公園(50.3ha)、錦町公園(1.7ha/旧育英中学や大聖寺などの寺院跡地)、定禅寺通緑地(0.8ha)など(一覧は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P329)
・ 1961年(S36)3月の戦災復興事業完了までに、復興区域内では、西公園の拡張整備のほか11の公園・緑地(20.6ha)が造成され、戦前からあった公園を合わせ約30haとなり、面積、数とも大幅に拡大した
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P252~253/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330
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戦災復興事業 |
土地区画整理 |
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・ 土地区画整理施工地区は仙台市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)
/ 当初計画(1946年(S21)5月の仙台都市復興都市計画土地区画決定)では土地区画整理面積424haだったが、その後、3回の縮小変更を経て、最終的には293haとなった
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P339の区画整理地図で、計画区域の縮小経過が確認できる
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P341~342に、区画整理前後の街路地図あり、街路の変化を対比できる
・ 区画整理前後の地積(道路・公園・宅地など)の変化は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P343の表79
/ 道路面積が11.5%→29.5%、公園1.1.%→6.8%、宅地84.8%→63%へ
<川内地区>
・ 当初計画区域とされた川内地区は、米軍接収(S20年9月~32年11月)されているため、区画整理区域からは除外、日本側に返還後は、国から東北大学、宮城県、仙台市が土地の使用配分を受ける
・ 返還後、東北大学川内キャンパス、市立商業高校、県営スポーツセンター、市立博物館などが建設された
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P338~343
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戦災復興事業 |
戦災墓地を北山霊園へ |
1951年(S26)~1952年(S27) |
* 1951年(S26)10日、復興区画整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に対して、新造成した北山霊園の一部に、墓地用地を配分
* 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓碑1648基移転修了、無縁墓碑600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨
* 1956年(S31)6月、残りの用地は市営墓地とし、市民に開放
・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333
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「市民の戦後史(仙台市)」P77(S28、北山霊園へ墓地移転供養)/同P96(墓参する家族)
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戦災復興事業 |
難航した堅牢建物移転 |
1948年(S23)~1958年(S33) |
<建物移転>
・ 1948年(S23)8月、開始
・ 対象は、区画整理施行区域内の幹線街路、区画街路、公園など予定地に建つ建築物
・ 方法は、曳き方、移築、除去の3種
・ 移転補償は移転料、移転完了までの家賃補償、工作物補償、営業補償、移転雑費など
<手を焼いた堅牢建物の移転>
* 1950年(S25)開始~1958年(S33)7月完了、新設または拡幅予定の幹線道路の用地にあった堅牢建築物11軒を移転
・ 長町堤町線の日乃出映画劇場
・ 東一番丁線の明治製菓支店、キリンビール支店
・ 東二番丁線の市立病院表玄関、仙台商工会議所、三井生命支店、協和銀行支店、逓信病院、東北学院赤レンガ校舎の一部、宮城学院校舎の一部
・ 多門通常盤丁線の小林家住宅
・ 最後まで残っていた、東二番丁線沿いの逓信病院、東北学院、宮城学院は、S33年3月~7月末に撤去完了
<参考>三井生命仙台支店は、1938年(S13)8月12日、新装された(「仙台市史10 年表」P294)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P334~345、P349
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撤去対象の東二番丁の堅牢建物の位置図は、写真98-109/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349の写真61(東二番丁通り拡幅部分にはみ出した宮城学院)
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戦災復興事業 |
不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺 |
1949年(S24)~1952年(S27) |
<不法建築物の強制撤去>
・ 「(敗戦後の仙台では)仙台駅前周辺や東一番丁、南町通りには不法建築のバラックが約1000軒、中でも仙台駅周辺では密集してヤミ商売が横行、「東北の上海」と呼ばれていた / 市は、立ち退き勧告に従わない露店を強制撤去
* 昭和24年4月、全国ではじめての代執行が行われた / 当日は約100人の作業員がトラック十数台を用意して待機し、不法占拠者が家財道具を運び出すのを待ってから建物を強制撤去 / 泣き叫ぶ女性、怒号が乱れ飛んだが、200人の警察官が動員されたほか、米軍MP(憲兵)も出て監視したのでそれ以上の抵抗はありませんでした / 以後数回、建築物の強制撤去が実施された。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P255~256)
・ 1949年(S24)3月~1952年(S27)12月に実施
・ 街路用地や不在者宅地内に無許可で建てたバラックなど集団的不法建築(仙台駅前の2つのマーケット街など)
・ 立ち退きに応じず、強制執行された一覧表に19件
→「仙台市史 続編第1巻」P346の表80(写真番号98-034)
* 中でも、S24年4月18日、駅前の東五番丁・南町通り交差点東北角(26戸)の強制撤去は、警察官500人出動しものものしい警備の中で、県と市の職員が代執行
* S24年3月、東一番丁・広瀬通交差点付近8戸
* S24年3月16日、東五番丁・南町通角付近の商店街火災(47戸全半焼)→同年4月18日、道路予定地に残った26戸を県が代執行、住民を臨時仮収容所に収容(市警察の警官250人出動、米軍憲兵が鳳月ビル2階から監視) / 退去した住民の大半は、西公園拡張予定地として空き地だった仲ノ町(のちの市民プール付近)周辺に住みつく→その後にまた代執行(S33年7月~年末)
* S24年4月18日、東五番丁・南町通り東北角26戸
* S24年10月10日~31日、青葉通り予定地の仙台駅前マーケット80戸に対し、市が撤去代執行
* S24年12月3日、青葉通りの不法建築28戸に退去代執行し、青葉通り貫通(東五番丁・名掛丁付近の36戸のうち立退きに応じない28戸に開始しようとしたら、自発的に立ち退く)
* S25年3月、仙台駅前の新興マーケット14戸
* S25年5月22日、仙台駅前青葉通りの露天商立ち退き問題で小競り合い、警官出動し強制撤去
* S25年7月、東五番丁の国際マーケット28戸
* S25年7月27日、青葉通りの違反建築30戸に代執行、警官も出動し緊迫
* S25年11月27日、南町通りの区画整理で27戸を代執行、東二番丁教会を除き貫通
* S25年12月8日、東一番丁拡張工事反対の120戸に立退き命令
* S26年7月4日、元寺小路・日吉町45戸
* S26年9月11日、青葉通・東五番丁角付近以西の69戸、市が代執行
* S27年4月11日、日吉町・名掛丁45戸
<立ち退き者の住宅対策>
・ S24年、花京院通に115㎡の臨時収容所設置、のにち小田原裏山本丁に移転
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P255~256/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345~348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P830、P832~835/「戦災復興余話」P46~49/「番丁詳伝」P165
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98-034(不法建築物の強制撤去一覧表)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール)
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戦災復興事業 |
不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町 |
1958年(S33) |
<仲ノ町の集団占拠>
・ 西公園の一部として公園緑地帯に指定された仲ノ町地区広瀬川岸の3.5haに、戦災で行き場所を失い追い詰められた生活困窮者や朝鮮人約1000人が無許可でバラックを建て住む
・ 1956年(S31)6月の市調査では、231戸347世帯、999人(うち朝鮮人が93人)居住
・ 通路は迷路状で密造酒、麻薬の巣窟、犯罪者の逃避場ともいわれ、市の調査員に警官同行した場合あり
・ 1958年(S33)7月26日、制服私服警官を配して、13戸を強制撤去、以降2~3戸ずつ順に代執行、自主移転者もいたが、12世帯(40人)は最後まで残った
・ 1960年(S35)、跡地に市民プール(東北電力が建設し市に寄付)着工し、最後まで残った世帯を臨時収容所に収容しS35年末までに完了・解決した
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P347~348/「番丁詳伝」P165
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戦災復興事業 |
市電軌道、電線、水路の移設 |
1947年(S22)~1960年(S35) |
<市電軌道の移設>
循環線の一部を、戦災復興年計画により既設街路の線形の変化、街路拡幅にあわせて軌道も移設(のべ1013m撤去、910m敷設)
* 1947年度(S22)から開始
・ 片平丁の裁判所前、西公園前、仙台駅前付近の3か所で、軌道の屈折緩和のため改良工事
* 1960年(S35)に、清水小路銑鉄局前の屈曲部も改良
<電線移設>
* 1952年(S27)2月、宅地になる旧道路に敷設されていた地下ケーブル線(送電用300m、電話用100m)を新道路地下に移設
<無電柱街路実現>
・ 仙台駅~川内線(仙台駅~南町間)=青葉通944m
・ 元寺小路川内線(元寺小路~国分町間)=広瀬通927m
・ 長町堤町線(南町通~錦町間)=818m
・ 東二番丁線(南町通~定禅寺通間)=892m
・ 東一番丁線(南町通~定禅寺通間)=838m
・ 中央通り繁華街(昭和35年7月ころまでに完成予定)
・ 当初計画された定禅寺通錦町線は、家屋移転が遅れて実現せず
<四ツ谷堰の水路変更>
* 1948年度(S23)~1957年度(S32)、一部水路の付け替え、暗渠化などを5カ所で実施
参考)「仙台市史2」(昭和30年刊)P673~674に、四ツ谷堰の市内三系統の経路が記載されている
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P352~354/中央通りの無電柱化予定は、「重訂 宮城県郷土史年表」P594/「番丁詳伝」P166~167
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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戦災復興(応急対策) |
住宅応急対策 |
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・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314
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戦災復興(応急対策) |
上下水道の応急復旧 |
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<上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少
<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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戦災復興(応急対策) |
仙台市営ガス |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315
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仙台市戦災復興記念館 |
開館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月1日、仙台市戦災復興記念館、大町に開館
* 1982年(S57)7月10日、復興記念館で、「戦争体験を後世に語り継ぐ集会」
* 1985年(S60)12日、館内に仙台市ボランティアセンター開設(2020年現在は、青葉区五橋の仙台市福祉プラザ6階にある)
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財団法人仙台ひと・まち交流財団HP/Wikipedia「仙台市戦災復興記念館」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台市史 年表」P132、P134
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