項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
---|---|---|---|---|---|
学童疎開 | 県内割り当て | 1944年(S19) |
* 1943年(S18)12月10日、文部省、学童の縁故疎開促進を発表 * 1944年(S19)6月30日、学童疎開促進要綱、閣議決定(国民学校初等科児童の集団疎開) 7月下旬~9月上旬で全国46万人が集団疎開 ****************************** <「仙台市史 続編第1巻」P41、P53> * 1944年(S19)7月、東京の学童1万5000人の集団疎開、宮城県に割当(遠刈田、鳴子などの温泉や松島の旅館などに収容)(P41) / 同書P53では、東京から宮城県内への学童集団疎開数は1万1500人 <「重訂 宮城県郷土史年表」P502> * 1944年(S19)8月10日、東京方面からの疎開児童1万1115人が宮城県に割りてられる <「ものがたり東北本線史」P531~532> 宮城県内へは、東京都浅草区、小石川区、杉並区の児童が、秋保、白石、小原、鎌先、鳴子、川渡、松島、古川などへ疎開 <「目で見る仙台の歴史」P169> * 1944年(S19)8月11日~17日、第1陣(浅草、小石川の学童)、付き添い含め1万1800余名、県内各温泉や松島へ * 1944年(S19)8月下旬中心に、第2陣(杉並区の学童) <「戦争のころ 仙台、宮城」P144~150> * 1944年(S19)夏~秋にかけ、東京都(小石川区と浅草区)の26の国民学校生(3~6年生)が学校ぐるみで1万7535人、教職員1196人、計1万8731人が宮城県内に学童集団疎開(東京都編「資料・東京都の学童疎開」)) ・ 宮城県の資料では、1万5471人 ・ 疎開先は、県内30市町村、戦争が終わるまでほぼ1年間、温泉地や観光旅館、寺院、民家などで過ごす ・ 1994年(S19)8月4日~9月24日、臨時列車で13時間かけて到着 ・ 第1次分 小石川区学童6700人が鳴子温泉と松島町、浅草区学童6700人は遠刈田、川渡、小原,鎌先、作並の各温泉と松島町 ・ 1994年(S19)暮れまでには、杉並区の学童(11国民学校)が高舘村、松山、若柳、吉岡、角田、涌谷、金成、築館、登米、米谷、佐沼の各町へ、浅草区の学童(3国民学校)が秋保温泉へ、東京第一師範付属が中新田町へ疎開 ・ 翌年3月、6年生が卒業して帰京すると、4月から新3年生が到着 ・ 疎開先での生活の記述あり(日課、食糧事情、親の面会、寂しさからの脱走、地元の受け入れ、帰郷した6年生が空襲で犠牲など) ********************************* * 1945年(S20)9月26日、疎開児童の復帰を指令、学徒隊を解体 |
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41、P53/「ものがたり東北本線史」P531~532/「重訂 宮城県郷土史年表」P502、P506/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P144~150 | 「目で見る仙台の歴史」P169に「学童疎開列車内風景」 |
学童疎開 | 仙台の学童 |
・ 仙台市の学校は、強制疎開の指定地ではなかったが、縁故疎開は着々と進められていた。 ・ 宮城師範付属国民学校では、疎開できる縁故のない3年生以上の学童60余人を、仙台空襲のあとに加美郡宮崎村に疎開させた。借用予定だった宮崎国民学校が陸軍予備士官学校生徒に占領されたので、やむなく村内の洞雲寺と長泉院や付近の農家に収容した。 <「戦争のころ 仙台、宮城」P150)> 宮城県でただ1校、仙台空襲(S20年7月10日)の18日後に集団疎開 * 1945年(S20)7月28日、宮城師範男子部付属国民学校129人が、仙台軽便鉄道仙台駅から乗車、宮崎村(東町洞雲寺、柳町長泉寺と近所の農家)に疎開 ・ 129人は、全校生の25%で、親が転勤族などで地元に縁故がない児童 ・ 学校では、地元の婦人12人に炊事作業を頼み、寺にはトイレが増設された。風呂はそういうわけにはいかず、多くの子は近くを流れる田川に毎日のように泳ぎに行きました。 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P317/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P150 |
全1ページ中、1ページ目 (総数:2件)