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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団 |
設置/改称/改称 |
1871年(M4)/1973年(M6)/1888年(M21) |
* 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
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「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685からの「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86
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第二師団(出兵記録)(1) |
出兵記録(仙台鎮台時代) |
明治年間(1) |
<西南戦争>
* 1877年(M10)3月20日、仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊の2個中隊が西南戦争へ出征(「仙台部隊関連年表」P689)
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。(「仙台市史 年表」P82)
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される(「仙台市史 年表」P82~83)
<朝鮮の甲申事件に際し、韓国駐箚公使館護衛>
* 1884年(M17)10月、韓国駐箚公使館護衛として歩兵第4連隊第1中隊を京城(ソウル)に派遣(「重訂 宮城県郷土史年表」P270)
* 1884年(M17)10月、仙台鎮台の第4連隊の1個中隊が朝鮮半島情勢の緊張にともなって漢城(現・ソウル)に派遣される(「仙台市史 年表」P85)
~ 以下は、「仙台部隊関連年表」P691より~
* 1884年(M17)10月10日、韓国駐箚公使館護衛のため、歩兵第4連隊第1中隊、仙台出発
* 1884年(M17)12月4日、京城の日本公使館、焼かれる
* 1884年(M17)12月4日~6日、第1中隊が戦闘
* 1885年(M18)7月4日、第1中隊、仙台に帰営
<第二師団発足>
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台を廃し、師団編制に改組、第二師団となる(「仙台部隊関連年表」P691)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P270/「仙台部隊関連年表」(宮城県史・兵事の末尾P689、P691)/「仙台市史 年表」P82~83、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300
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第二師団(出兵記録)(4) |
出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む) |
昭和戦前期(1) |
<満州駐箚、満州事変>
* 1931年(S6)3月18日、満州守備へ出発開始(在仙台の歩兵第4連隊など各部隊の他、会津若松の歩兵第29連隊、新潟県高田の歩兵第30連隊、新発田の歩兵第16連隊など第二師団管下の部隊) / 第二師団の渡満で、仙台不景気に(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)9月からの満州事変では、満州各地を転戦、占領 / 日本側の最初の戦死者は、歩兵第4連隊の兵士29名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308)
* 1931年(S6)10月、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で第二師団など主催の慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送
* 1933年(S8)1月7~9日と13日、満州から仙台に凱旋(→詳細は、写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述) / 1月7日、NHK仙台放送局が歓迎式を仙台駅前からラジオ中継放送
<軍事演習>
* 1932年(S7)9月18日、満州事変勃発一周年記念、第二師団留守部隊、学生の大演習
* 1933年(S8)3月10日、第二師団が国分町中心に大規模な模擬市街戦実施
* 1934年(S9)3月10日、陸軍記念日により、模擬弾・タンク・照空灯を市民に公開
* 1935年(S10)9月13日、騎兵第二連隊200騎、蔵王山突破す(遠刈田→上山を3日間で)
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* 1933年(S8)8月14日、東久邇宮稔彦王殿下、第二師団長として着任(S9年8月1日、第四師団長に転任)
<2・26事件警備>
* 1936年(S11)2月26日、歩兵第4連隊、2・26事件警備で上京(6月6日帰還)(重訂 宮城県郷土史年表」P451)
「歩兵第4連隊混成大隊208人、118日間にわたって決起将校らが収容されている代々木の陸軍刑務所の警備にあたる(「戦争のころ 仙台、宮城」P39)
* 1936年(S11)6月6日、2・26事件戒厳令下、歩兵第4連隊帰還(「仙台市史 10 年表」P288)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P308~311、P361/「宮城県史 7」P685の『仙台部隊関連年表』/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P434、P436、P441、P447、P451/「仙台市史 年表」P105/「仙台放送局60年のあゆみ」P5、P7/「仙台市史10 年表」P279、P280、P281、P282、P288/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P183/「仙台年表」P202、P204/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P39
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第二師団(出兵記録)(5) |
出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む) |
昭和戦前期(2) |
<満州駐箚>
* 1937年(S12)4月、満州守備(駐箚)のため出発
* 「1937年(S12)4月9日から10日間、多数の第二師団「渡満」兵の行進が市街を通り抜けていく。銃後の市民の間には、社寺のお守りを真綿でくるんで弾除けにするお守り袋や雑貨を詰め込んだ慰問袋を、郷土の在満兵士たちに贈る運動が盛んになっていた。7月7日の日中戦開始まで間もない頃である」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P311)
<日中戦争>
* 1937年(S12)7月の日中戦争開始後は、駐箚中の満州から第二師団の一部(歩兵第4連隊第1大隊=大泉部隊)を北京へ急派 / 1938年(S13)には、その他の第二師団も満州から中国戦線へ
* 1937年(S12)9月、日中戦争勃発により急きょ、第二師団留守部隊を根幹とする十三師団(歩兵104連隊)が仙台で編制され、中国戦線へ ( →項目「第十三師団」参照 )
* 1937年(S12)12月、歩兵第4連隊第1大隊の故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(市公会堂)
<仙台へ帰還>
* 1940年(S15)8月1日、第二師団を仙台師団と改称(「仙台城」P234)
* 1940年(S15)10月、内地帰還
* 1940年(S15)11月、仙台師団は任務を終えて帰国(昭和17年宮城県知事事務引継書)
* 1940年(S15)10月21日、仙台師団において紀元2600年奉祝観兵式(宮城野原練兵場)
* 1940年(S15)11月17日、日華事変(=日中戦争)以来の管内出身将兵の慰霊祭(東二番丁小学校で)、引き続き、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭(追廻練兵場の昭忠塔前で)
<太平洋戦争> 第二師団=勇兵団
* 1941年(S16)12月の太平洋戦争突入
* 1942年(S17)1月、日本を出発、インドネシアのジャワ島(17年2月上陸) /「戦争のころ 仙台、宮城」P68では、3月1日上陸「2月になってから海軍艦艇の護衛のもとフランス領カムラン湾(現ベトナム)へ進出、60隻の大輸送船団は巡洋艦、駆逐艦32隻に守られ目的地に向かいます。途中で2回にわたって敵艦隊と遭遇、これを撃退する間退避行動をとったので上陸は3月1日に延期されました。3月1日ジャワ島上陸、わずか12日間で8万2000人のオランダ、英国軍を降伏させ占領。現地では日本軍はオランダからの解放者と受け取られ、日本軍への協力がありました。」
・ その後はニューブリテン島、ソロモン諸島のガダルカナル島(17年10月~)、フィリピン諸島、マレー、ビルマ(インパール作戦)などを転戦、終戦時は南部仏印(一部はビルマ)
・ ガダルカナル戦では、歩兵第4連隊第2、第3大隊が「青葉支隊」として投入される(「仙台市史 続編第1巻」P37) / ガダリカナル戦で第二師団の死者・戦病死者は7671人(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1944年(S19)3月、ビルマ進攻、インパール作戦(北部ビルマから2000m級のアラカン山脈を越え、インドのインパールへの進攻作戦)に、第二師団も投入されるが、5月、雨季を迎えたフーコン峡谷の沼や密林の中で、食糧や弾薬不足、疫病に苦しみ次第に後退。 / インパール作戦での第二師団の戦死、戦病死者は、1万2748人(師団兵力の3分の2を失う)(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)1月、仏印に転戦を命じられる。同師団の歩兵第16連隊、野砲、工兵、衛生兵で編成された青葉兵団と歩兵第4連隊はビルマに残り戦闘継続(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
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* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P311、P314/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P37、P64/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P476~477、P479/「仙台市史10 年表」P306、P308/「仙台市史年表」P104/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P185/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P67~68、P136、238
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第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会 |
開催 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)
<「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2「満蒙軍事博覧会」より要約> 展示館は、満州国大パノラマ館、陸軍館(新兵器、満州事変上海事変戦利品)、海軍館(陸軍館と同様)、第二師団戦勝館(各種兵器、軍刀、血染めの軍服、遺品)、産業館、特設館、日本伝説お化け館、お伽の国館、特設海女館(豊麗なる十数名の海女が水中にて種々なる妙技を実演)、演芸館(歌舞、映画、演劇等)
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「仙台市史10 年表」P280/「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2
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第二師団(出兵記録)(3) |
出兵記録 |
大正年間 |
<第一次世界大戦>
* 1914年(T3)9月、4個中隊が、中国方面の守備に派遣される
* 1917年(T6)9月、1個中隊、山東半島青島の守備を命じられる
<シベリア出兵>
* 1918年(T7)8月2日、第二師団山砲兵第一連隊および輜重兵第二大隊がシベリアに派遣される
* 1921年(T10)6月、歩兵第3旅団が前年のニコラエフスク(尼港)事件を受けてサハリンと沿海州の守備に派遣される
* 1922年(T11)6月、歩兵第25旅団、歩兵第3旅団と交代するためサハリンと沿海州に派遣される
<米騒動に出動>
* 1918年(T7)、仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった(「新・目で見る仙台の歴史」P148) / 仙台の米騒動では、歩兵第4連隊やこの当時には仙台にいた歩兵第29連隊の1000名を超す兵が鎮圧のため出動、要所要所で銃剣をもって市民の通行を監視し、まるで戒厳令が布かれたような物々しさであった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497)
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「仙台市史 年表」P97、P98、P100、P101/「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497/「新・目で見る仙台の歴史」P148
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「いつか見た街・人・暮らし」P8(満州守備派遣兵帰る、仙台駅前、大正13年)/同P21(初観兵式、大正13年1月8日、宮城野原練兵場)
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第二師団(出兵記録)(2) |
出兵記録(凱旋・慰霊などを含む) |
明治年間(2) |
<日清戦争>
* 1894年(M27)10月29日~11月3日、第二師団が遼東半島・山東半島への出征のため、長町軍用駅から出発(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月22日、宮城県凱旋部隊歓迎会(挹翠館)
(「仙台市史10年表」P210)
<日露戦争>
* 1904年(M37)2月17日、第二師団、長町駅から出兵を始める(「市史年表」P92)
* 1905年(M38)12月24日、第二師団師団司令部凱旋、日露戦役凱旋式を挙行(「仙台年表」P180 =出典:第二師団司令部「仙台城沿革」S12年刊)
* 1906年(M39)4月1日、第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる(「市史年表」P93)
<韓国駐箚>
* 1910年(M43)4月、第二師団、韓国守備に派遣される(市史年表P95)
* 1910年(M43)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を発つ(Wikipedia「第二師団」)
* 1912年(M45)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着(Wikipedia「第二師団」)
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「仙台市史10 年表」P210/「仙台市史 年表」P89、P92、P93、P95/「仙台年表」P180/Wikipedia「第二師団」/「宮城県の百年」P99
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「新・目で見る仙台の歴史」P136(日清戦争で長町臨時停車場からの出発風景/「出征」する軍馬)/「目で見る仙台の歴史」P131(日清戦争で「長町から乗車出征する第二師団」「凱旋門」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P302~303(長町停車場で日清戦争出征将兵見送り、絵図「同戦争からの帰還を迎える市民たち」)/同P306(日露戦争凱旋門と帰還兵士を迎える市民たち)/「新・目で見る仙台の歴史」P136(「日露戦争将兵の帰還」/「正装の日赤従軍看護婦たち」)/同P137(「仙台の日露戦争凱旋門」/「軍事郵便」)「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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第二師団 |
仙台鎮台を改称 |
1888年(M21)~1945年(S20) |
・ 1945年(S20)の敗戦まで仙台は日本の軍都の一つだった
・ 明治初期以来、東北鎮台・仙台鎮台・第二師団の時代を通じ、仙台市川内(旧仙台城二の丸跡)に司令部を置き、市内の川内、榴ヶ岡、宮城野原に、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各種部隊(連隊・大隊)を配置、県外では時代により変遷はあるが、福島県内、新潟県内などの連隊も隷下においた
* 1871年(M4)年11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台本営を第二師団司令部とす(「仙台城」P232)
* 明治、大正、昭和(20年まで)、海外出兵、国内出動多数
→ 項目「第二師団(出兵記録)」参照
→ 項目「歩兵第4連隊」参照
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯
<参考> 当サイト内、写真ベータベースの【関連資料】G-26「仙台の兵営」には、仙台関連の陸軍師団、各連隊などの一覧、学校、工廠など軍関連施設一覧と、それぞれの年表が記載されている
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「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685以降の「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232
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師団司令部は、98-084、「市民の戦後史(仙台市)」P22、「新・目で見る仙台の歴史」P135/「いつか見た街・人・暮らし」P47の写真169(大正7年度軍旗祭、歩兵第29連隊)/同P169の写真171(大正15年、陸軍特別大演習での観兵式、宮城野原練兵場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P295(M30年、川内兵営の図)/ 95-02
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