項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
---|---|---|---|---|---|
戦時中の疎開者受入れ | 仙台市/宮城県 | 1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ> * 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人 * 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人 <宮城県への疎開者> 「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201 |
全1ページ中、1ページ目 (総数:1件)