項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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仙台市の農村・農業(戦後) | 農業・農村地帯の変化 | 引用した参考資料 |
<参考> (1)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658の「第八章 農業」は、戦後~昭和43年頃までの、仙台の農業の変遷につき記述。 ・ 内容は、農地解放の経緯(S21年~27年ころ)、他産業との所得格差、兼業化、都市拡大に侵食される農用地、農地の基盤整備事業、畜産の推移、林業の変化、農畜産物流通、中央卸売市場開設、農協合併、戦後開拓地(緊急開拓事業)、仙台市育種園など (2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658、P723~762 | |
仙台市の農村・農業(戦後) | 農地解放(農地改革) | 1946年(S21)~1952年(S27)頃 |
* 1945年(S20)12月9日、GHQが農地改革を指令 <仙台市内の田畑農地解放> (1) 1945年(S20)11月時点の小作地面積は、2591町歩 (2) 1950年(S25)8月時点の小作地面積は、399町歩 (3) 市内田畑総耕地面積に占める小作地割合の変遷 S20年(48.6%)→S24年(12.1%)→S26年(7.2%)→S27年(3.5%) (4) 農地を買収された地主戸数は、3719戸 (個人地主3490戸、法人地主229) (在村地主1665戸、不在地主2054戸) (10町歩以上買収された地主、個人17戸、法人2) 売り渡しを受けた戸数は、4524戸 <宮城県内の田畑農地解放> (1) 1945年(S20)11月時点で、自作地40%、小作地59.4% (2) 改革完了後には、自作地89.5%、小作地10.5% (3) 自作小作農家の割合変化 小作農 41.6%→3.9% 自作農 19.4%→61.1% 自小作農 15.1%→24.8% |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P606~611、P726 | |
仙台市の農村・農業(戦後) | 戦後の緊急開拓事業 | 昭和20年代 |
・ 戦争終結にともない、外地からの引揚者や戦地から復員 した人々の受入れのため、未開発の原野や山林に入植させ、開墾開拓に従事させた。 ・ 土地が与えられたとはいえ多くは「飢餓開拓」という様相で、作物の育ちの悪い中で耐乏生活を強いられた。 ・ 仙台市内(昭和62~63年に編入した秋保町、泉市、宮城町を除く)の開拓組合は12で昭和23~24年に結成、入植戸数は昭和31年現在で計297戸(各開拓組合あたり10戸前後~36戸) ・ 開拓組合名は、青葉山、小松島、八木山、仙台北部、仙台市鶴谷、三神峯、芦ノ口、仙台市向山、坪沼、茂庭、生出増反、鈎取 ・ 青葉山開拓地には1945年の23戸から、1965年までに55戸が入植した(『仙台市史』通史編8(現代1)P59)/ その後、東北大学の川内キャンパスの一部となり消滅した。 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P656~657 | |
仙台市の農村・農業(戦後) | 農漁業が支えた戦後経済(1) | 昭和20年終戦~昭和24年頃 |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732> ・ 昭和20年は明治38年以来の凶作で米が大減収、農家は供出よりも自家飯米の確保に忙殺された。 ・ 昭和21年には米をはじめ水産業でも収穫が急速に回復、その上、インフレと食料不足にもとづくヤミ取引の横行により生産県である宮城県の農家経済は異常な現金収入に恵まれ、昭和22年、23年と連続して台風被害による米の減収があったとはいえ、全体として農家はヤミ取引による現金収入で潤い、戦後という異常な時期の特色を示していた。 ・ 終戦から昭和24年ごろまでの特徴は、戦争による経済の破壊は大きかったが、仙台の経済が農村に依存していたために、農家のインフレ景気に支えられて、都市部の疲弊にもかかわらず相対的には商業を中心に活動が開始されていた。特に金融は農村からの預金の集中があったために、それを貸し出しに回すことができた。 ・ 昭和24年のドッジ・ライン以降、デフレへの経済転換の中で、農村の景気が終わりを告げ、そのために経済が沈滞し金融面にも大きく影響した。 <「仙台市史 特別編4 市民生活」P368> ・ 第二次大戦後の仙台市の経済は、ほとんど休眠の状態に陥ったといえる。産業は沈滞を極め、農業も労働力の絶対的不足で農地は荒れ、食糧事情は窮迫していた。 しかし、都市部の経済がまだ混乱が続く中で、米の生産量は増加し、仙台近郊の農家は、現金収入を増加させていった。 農村景気の出現である。この農村の余剰資金が仙台に集中し、それが産業復興の資金としての役割の一部をになったといえる。 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732の「第九章第三節 景気と金融の一 復興のあゆみ」から、農業にかかわる部分のみを抜粋/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368 | |
仙台市の農村・農業(戦後) | 農漁業が支えた戦後経済(2) | 1950年(S25)~1959年(S34) |
・ 全国的には、昭和25年勃発した朝鮮戦争による特需が、停戦により景気後退が始まる中で、26年は米の大豊作、豊漁、27年も農水産物好調で、仙台の商業も活況、第一次産業の堅調にもっぱら依存しながら、仙台の経済は本格的な復興の段階にはいる。 ・ 昭和28年の冷害凶作、29年の米価切下げによるデフレ浸透のあと、30年は空前の豊作で農家経済は一挙に好転(宮城県内の稲作収入は前年比46%増)、ナタネ、麦、繭なども豊作、サンマ中心に水産業の水揚実績は戦前戦後通じて最高を記録、このため工業も食品加工業が活況、他の工業は中央の動向を反映し依然不況ではあったが、東北では工業の比重が低いため他の先進地に比べ不況の程度は少なく、東北の全体経済には影響が少なかった。 ・ 仙台のデパートは、29年末の売上から戦後最高を記録、東一番丁や中央通りの商店街の増改築が目立って増え始める ・ 昭和31~32年も、米作3年続きの豊作、水産業はサンマ漁獲減にもかかわらず比較的順調で、消費需要の堅調に支えられ商業中心に伸長を続けた(全国的にはこの時期の景気は重化学工業の発展による消費需要だったが、仙台や東北はそれに直接依存するものではなかった。31年の工業出荷額、全国は前年比23%増、宮城はわずか5%と自然増程度。) ・ 昭和30年代は、食管制度に支えられて、ともかくも安定している米作を中心とする第一次産業へ流れ込んだ資金が、農村を背景とする消費の堅調を通じて第三次産業を媒介にしながら、仙台を中軸とする都市の金融機関に集中する。この資金が都市銀行に集められて、太平洋ベルト地帯などの先進地域における重化学工場の成長資金として利用された。 ・ 先進地帯の重化学工業中心の経済成長のために、東北は農業、特にコメを中心とする食糧の供給、次に東北開発の一環として行われた各種自然資源の供給、さらに農村からの労働力の供給、そして金融面では成長資金の供給をも担当することになったのであり、仙台はそれらの供給業務に伴う管理中枢の機能を集積していくことになるわけである。 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P732~745の「第九章第三節 景気と金融の二 再建の足取り」から、農業にかかわる部分のみを抜粋 |
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