項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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高等学校(新制) | 聖和学園吉田高等学校/聖和学園高等学校 | 1948年(S23)/1986年(S61) |
<前史> * 1930年(S5)4月8日、宮城県仏教会が吉田高等女学校開設(東三番丁の東本願寺別院が仮校舎) * 1930年(S5)9月、木ノ下旧国分寺薬師堂隣接地に新校舎建築し移転 * 1936年(S11)、財団法人吉田高等女学校認可 <学制改革で高校に> * 1948年(S23)、新制高等学校を設置、聖和学園吉田高等学校と改称し、吉田中学校も併設 * 1951年(S26)、学校法人聖和学園設立認可 * 1978年(S53)、創立時建設の高等学校木造校舎解体 * 1979年(S54)、中学校廃校 * 1980年(S55)、創立50周年記念式典挙行並びに講堂兼体育館及び管理棟落慶式 * 1986年(S61)、聖和学園高等学校と改称 * 2003年(H15)、薬師堂キャンパス竣工、三神峯キャンパス竣工、男女共学制開始、5コース制導入 * 2006年(H18)、全コース男女共学 * 2010年(H22)、創立80周年記念式典 |
聖和学園高等学校HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529/聖和学園高等学校HP | |
スポーツ大会(戦後復興期) | 宮城県高校総合体育大会(第1回) | 1952年(S27) | * 1952年(S27)5月23日、第1回県下高等学校総合体育大会始まる | 「仙台市史10 年表」P328 | |
仙台城二の丸焼失 | 焼失 | 1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている * 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232) * 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失 * 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265) * 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163) |
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163 | |
ニッカウイスキー工場 | 仙台工場 | 1969年(S44) | * 1969年(S44)5月10日、仙台工場を宮城町新川地内に完成 | 「重訂 宮城県郷土史年表」P649 | |
満蒙開拓 | 宮城県関連(4-1)仙台村 | 1942年(S17)~1945年(S20) |
<商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)> 【仙台市市 年表」P111~112】 * 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設 【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった 【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】 * 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる <戦後> * 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28) |
「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216 | |
高等学校(新制) | 聖ウルスラ学院高等学校/聖ウルスラ学院英智高等学校 | 1959年(S34)/2005年(H17) |
<前史> * 1936年(S11)、カナダから来仙した修道女が北四番丁で家庭学校の前身を創設 * 1940年(S15)、市内木ノ下に修道院を開設 * 太平洋戦争中、修道女たちは拘束され、修道院は軍の無線通信講習所として接収、戦後は戦災を受けた白百合学園に貸与 * 終戦後、修道女たちは一旦カナダに帰国、1947年(S22)に再来日 * S23年に木ノ下に家庭学校、S24年に幼稚園、S25年に小学校開設 / S30年に、一本杉の旧伊達伯爵邸跡に中学校創設 <高等学校> * 1959年(S34)、学校法人聖ウルスラ学院が高等学校を開校(一本杉の旧伊達伯爵邸跡に) * 2003年(H15)、一般と特別志学のコース制を導入 * 2005年(H17)、高校の新校舎完成 <校名変更> * 2005年(H17)、校名を、聖ウルスラ学院英智高等学校に変更 / 特別志学コースを男女共学制とする * 2007年(H19)、特別志学コースType2を新設し、特別志学コースType1、尚志コースの3コースとする * 2012年(H24)、校舎一体型の小・中学校と併設型高等学校の一貫教育(4・3・2+3)の実現 * 2017年(H29)、南小泉総合グラウンド完成 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P530~531 | |
スポーツ大会(戦後復興期) | 全国高校レスリング選手権 | 1952年(S27) | * 1952年(S27)8月、全国高校レスリング選手権(レジャーセンター) | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470 | |
仙台庶民金庫 | 開業 | 1923年(T12) |
* 1923年(T12)7月、仙台市街地信用組合として開業、同年12月に仙台庶民金庫と改称(「仙台市史 年表」P102) * 1923年(T12)4月、定禅寺通りに(有)信用組合仙台庶民金庫、設立(「仙台市史 特別編4 市民生活」P515) |
「仙台市史 年表」P102/「仙台市史 特別編4 市民生活」P515 | |
満蒙開拓 | 宮城県関連(4-2)仙台村(つづき) | 1942年(S17)~1945年(S20) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり ・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽 ・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる ・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた ・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした <敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170) 「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」 |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170 | |
高等学校(新制) | 聖ドミニコ学院高等学校 | 1960年(S35) |
<前史> * 1931年(S6)、聖ドミニコ女子修道会本部より5人の修道女が来日、仙台に修道院を設立 * 1933年(S8)、 暁の星学院(外国語教育)を設立 * 1937年(S12)、暁の星幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院幼稚園)を開園 / 戦争のため一時休園 <戦後> * 1949年(S24)、私立北仙台幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院北仙台幼稚園)を開園 * 1953年(S28)、学校法人聖ドミニコ学院創立、聖ドミニコ学院小学校設立、暁の星幼稚園を聖ドミニコ学院幼稚園と改名 * 1959年(S34)4月、聖ドミニコ学院中学校を開校(S56年、生徒数の減少により休校 / H21年、中学校再開) <高等学校> * 1960年(S35)4月、聖ドミニコ学院高等学校を設立(北五十人町、のちの角五郎丁6丁目) * 1983年(S58)、学院創立30周年 / 新校舎落成 * 2003年(H15)、学院創立50周年 * 2008年(H20)、高等学校のコース制再編(2コースより、特別進学コース、総合進学コース、幼児保育進学コース、キャリアデザインコースの4コースとなる) |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P531/Wikipedia「聖ドミニコ学院中学校・高等学校」 | |
スポーツ大会(戦後復興期) | 全日本自転車競技選手権 | 1952年(S27) | * 1952年(S27)8月、全日本自転車競技選手権(宮城野原自転車競技場) | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470 | |
満蒙開拓 | 宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団 | 1940年(S15)~1945年(S20) |
・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団 * 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人 ・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地 ・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人 ・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha) |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168 | |
満蒙開拓 | 宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍 | 1938年(S13)~1940年(S20) |
・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す ・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る ・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった ・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練 ・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた ・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭 |
/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169 | |
スポーツ大会(戦後復興期) | 東北一周自転車競走 | 1952年(S27) | * 1952年(S27)、第1回東北一周自転車競走 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P472 | |
ネオンサイン | 仙台では・・・ | 1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降 * カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。 |
「番丁詳伝」P197 | |
水の森スケート場 | 開場 | 1974年(S49) | * 1974年(S49)12月29日、仙台市が「水の森スケート場」を設置 | 「仙台市史 年表」P129 | |
スポーツ大会 | 市民総合体育大会 | 1965年(S40)~ | * 1965年(S40)10月1日~3日、第1回仙台市民総合体育大会(学区対抗などの形で、18競技)/ 1968年(S43)には25種目 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479~480 | |
仙台市立病院 | 長町に新築・移転 | 2014年(H26) | * 2014年(H26)11月1日、長町に移転・開院 | 仙台市立病院HP(病院の沿革)/Wikipedia「仙台市立病院」 | |
ネオンサイン(全廃) | 全廃決定 | 1939年(S14) |
* 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定 * 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など) 国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された |
岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16 | |
国際反戦デー | * 1969年(S44)10月21日、東北は7万人参加 | 「重訂 宮城県郷土史年表」P653 | |||
スポーツ大会 | 全国高校総合体育大会(第28回) | 1990年(H2) | * 1990年(H2)7月31日、宮城県で、第28回全国高校総合体育大会開催 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P267 | |
国定公園 | 蔵王国定公園 | 1963年(S38) | * 1963年(S38)8月8日、蔵王連峰を国定公園に指定(宮城県、山形県にまたがる) | 「重訂 宮城県郷土史年表」P609 | |
スポーツ大会 | 仙台ハーフマラソン大会 | 1991年(H3) | * 1991年(H3)3月17日、第1回仙台ハーフマラソン大会 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P271 | |
ネオンサイン | オイルショック後復活 | 1975年(S50) |
* 1973年(S48)10月25日、石油ショック発生 * 1973年(S48)11月5日、石油ショックで東京など大都市のネオンが消える(「菅家年表」P67) * 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68) * 1974年(S49)10月6日、東京・銀座にネオンが復活(「菅家年表」P68) * 1975年(S50)11月、オイルショック以来消えていた仙台のネオンが点灯復活(「続・ 宮城県郷土史年表」P47) |
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P47 | |
緑の団地条例(仙台市) | 指定第1号 | 1982年(S57) | * 1982年(S57)11月9日、第1号に茂庭台1丁目~5丁目を指定 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P153 | |
国定公園 | 栗駒国定公園 | 1968年(S43) | * 1968年(S43)7月22日、栗駒山を中心にする一帯を国定公園に指定(岩手県、宮城県、秋田県、山形県にまたがる大規模な山岳国定公園) | Wikipedia「栗駒国定公園 | |
スポーツ大会 | 仙台カップ・国際ユースサッカー大会 | 2003年(H15) | * 2003年(H15)、第1回仙台カップ・国際ユースサッカー大会、開催 / 2010年(第8回大会)まで開催、2011年大会は東日本大震災の影響で開催が中止、以後も休止状態 / 会場は「仙台スタジアム」(2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」) / | 仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台カップ・国際ユースサッカー大会」(2020年4月) | |
仙台スタジアム | オープン | 1997年(H9) |
* 1997年(H9)6月、「仙台スタジアム」が、泉区七北田にオープン / 2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」 サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールの専用公式競技場として誕生 / サッカーのベガルタ仙台のホームスタジアム |
Wikipedia「仙台スタジアム」(2019年9月) | |
ネオンサイン | 省エネ消灯 | 1980年(S55) | * 1980年(S55)6月16日、省エネで、ネオン9割近く消灯 | 「続・ 宮城県郷土史年表」P112 | |
国鉄(日本鉄道時代) | 東北本線 | 1887年(M20)~1906年(M39)10月 |
<日本鉄道時代> * 1887年(M20)12月15日、開業 (当時は私鉄・日本鉄道で、塩釜まで開通) * 同年12月20日、東京・仙台間の開通式挙行 * 1891年(M24)9月1日、仙台~青森間が開通 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87 | |
スポーツ大会 | ねんりんピック | 2012年(H24) | * 2012年(H24)、年輪ピック宮城・仙台2012、開催 | 仙台市HP「仙台市のあゆみ」 | |
仙台赤十字病院 | 開設/改称/移転 | 1924年(T13)/1940年(S15)/1943年(S18)/1945年(S20)/1956年(S31)/1982年(S57 |
* 1924年(T13)10月18日、財団法人斎藤報恩会(桃生郡河南町の斎藤善右衛門)の寄付金により、「日本赤十字社宮城支部常設救護所(診療所)」が北一番丁に開設される(内科・外科・小児科で、対象は救急患者のみ) * 1940年(S15)1月、日赤宮城支部仙台病院と改称(一般患者も受入れ) * 1941年(S16)、看護婦養成所開設 * 1943年(S18)1月、「仙台赤十字病院」と改称 * 1945年(S20)3月、横須賀海軍仙台赤十字病院として、海軍傷病兵300人収容 / 一般患者は外来のみとなる * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で全焼、患者12人など18人死亡 * 空襲後移転先 愛子国民学校→青根温泉内の分院→S20年10月、片倉製糸工場(東八番丁)の一部借受け、一般患者診療開始(病床115) * 1954年(S29)11月3日、病院建設起工式(清水小路) * 1956年(S31)9月25日、県立病院を併置して清水小路に新築移転完了/ S36年10月、併設の県立仙台病院廃止 * 1982年(S57)3月20日、新病院が八木山本町2丁目に竣工、翌月14日診療開始 * 1982年(S57)4月14日、併設の東北初、「小児医療センター」新病棟完成 ・ 戦時中は、応召看護婦101人 ・ 災害地への出動、無医村、開拓地への巡回診療、戦後、中国や朝鮮からの帰還者の添い乗り診療なども実施 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P397/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P730~731/「仙台市史 年表」P102、P119、P132/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「続・ 宮城県郷土史年表」P145 | |
年賀郵便 | 戦時中に廃止 | 1941年(S16)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止 * 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活 |
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42 | |
国鉄(鉄道省時代) 1 | 日本鉄道 →国有化(鉄道省) | 1906年(M39)11月~1945年(S20)8月 |
<鉄道省・運輸逓信省時代> 日本鉄道は、M39年公布の鉄道国有法により、 * 1906年(M39)11月1日、国有化された * 1944年(S19)11月15日、東北本線岩切駅から分岐する「海線」(岩切~品井沼)開通 |
「仙台市史 年表」P93/Wikipedia「日本鉄道」/「重訂 宮城県郷土史年表」P503 | |
国鉄(鉄道省時代) 2 | 戦時輸送(貨物優先体制) | 1938年(S13)~1943年(S18) |
<戦時中> (所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省) <戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より) * 1938年(S13)6月、鉄道輸送は旅客より貨物重点方針決定、戦時輸送優先(全国鉄道局長会議) * 1938年(S13)、仙台鉄道局内に第1鉄道輸送司令部仙台支部設置(司令官は大佐)、1943年(S18)に仙台地区司令部となり(司令官は大佐)、仙台駅、弘前駅には停車場司令部が置かれた * 1938年(S13)10月1日、銑鉄局管内で「銃後弁当」売り出し(15銭) * 1939年(S14)11月15日、ダイヤ改正、旅客を従、貨物列車を主とする * 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語の表示が消える(菅家年表P25) * 1942年(S17)10月6日、閣議、戦時陸運非常体制を決定、東北本線は石炭輸送第一(北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送) * 1943年(S18)2月28日、国鉄乗客指定制実施(厳しい旅行制限)、食堂車、寝台車完全廃止 * 1943年(S18)3月10日、仙鉄局、11本の貨物列車新設(3月11日、石炭専用列車スタート) |
「ものがたり東北本線史」P507~P532/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25 | |
年中行事(まつり) | 仙台祭 | 1887年(M20)~ |
* 1887年(M20)10月、招魂祭に合わせて桜岡大神宮祭礼や青葉神社祭礼などの仙台祭がおこなわれる。 この年以降、招魂祭と仙台祭は合同開催となる * 1899年(M32)、仙台まつりの山鉾は路上の電線その他の関係によりこの年限り廃止となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P315) |
「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P315 | |
国鉄(鉄道省時代) 3 | 戦時輸送(決戦輸送) | 1944年(S19) |
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より) * 1944年(S19) この年、国鉄は徴用者、一般疎開、工場疎開、学童疎開、北海道からの石炭輸送、戦時物資などの輸送を重点とした / 戦時貨物輸送増強のため、国鉄長町ヤードを強化 / 4月からは「決戦輸送」 <女性増加> * 1月、国鉄現場に女性が急激に進出(仙台局管内の8%に) / 出札、改札、小荷物、車掌、列車掃除手、踏切警手など * 3月、女性が、貨物掛、荷扱手など重労働の職種にも <急行列車など廃止> * 4月1日、急行半減、寝台車廃止、一等寝台、食堂車廃止 * 4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ * 9月、唯一の急行列車も廃止(昭和20年11月20日、仙鉄の急行列車復活) <疎開輸送> * 3月28日、東北地方初の疎開輸送用臨時列車(常磐線まわり一関行き) * 4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間 <旅行制限> * 4月1日、100キロ以上の長距離旅行制限 / 旅行者は、警察の「旅行証明書」が必要 <旅行制限:以下、Wikipedia「決戦非常措置要綱」より> 旅行制限では100km以下の乗車券の発売枚数の割当による数量の制限のほか、100km以上(乗車時間2時間以上)の遠距離列車の切符について居住地の警察署発行の旅行証明書がないと購入できないようにする措置(買い出しや遊興旅行の制限が目的)が東京都区内・横浜市内・川崎市内駅発に限り試行されたが、警察署の第一線事務増加からの反対から5ヶ月後に廃止され全国施行はされなかった。(上田卓爾「戦時下における旅行制限とガイドブックについて」) <これ以降は、項目「国鉄(戦後)」へつづく> <戦後の東北線関連は、項目「国鉄(東北本線)」へ> |
「ものがたり東北本線史」P507~P532/Wikipedia「決戦非常措置要綱」 | |
隅櫓 | 空襲で焼失 | 1945年(S20) | * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失 | 仙台市HP | |
仙台七夕 | 明治・大正期/七つ道具 |
【「番丁詳伝」P94~95】 ・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり ・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている ・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった ・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている <七つ道具> ・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期 ・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった (1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。 (2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという (3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。 (4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。 (5)巾着 富貴を祈りつくられる。 (6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。 (7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。 |
「番丁詳伝」P94~95 | ||
年中行事(まつり) | 青葉まつり | 1956年(S31)~ | → 項目「青葉まつり」参照 | ||
年中行事(まつり) | 東北三大まつり | 1969年(S44)~ | * 1969年(S44)5月30日、仙台七夕、秋田竿灯、青森ねぶた、仙台市内でパレードを行う | 「重訂 宮城県郷土史年表」P649 | |
青少年団 | 仙台市青少年団結成 | 1941年(S16) |
* 1941年(S16)3月10日、仙台市青年団・仙台女子青年団・仙台愛国少年会・少年団宮城地方同盟が統合し「仙台市青少年団」結成 仙台市青年団結成は、1916年(T5)7月16日 仙台女子青年団結成は、1932年(S7)1月 仙台連合女子青年団結成は、1933年(S8)5月6日 仙台愛国少年会連盟結成は、1932年(S7)11月10日 * 1945年(S20)6月30日、仙台市青少年団解散 |
「仙台市史 年表」P97、P106、P107、P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P505 | |
仙台七夕 | 戦時中の休止 | 1938年(S13)~1945年(S20) |
~ 出典は、右欄の1)2)3)4)に ~ 1) 1938年(S13年)から、戦前の仙台七夕は中止となった(日中戦争の本格化により) 2) 仙台七夕祭、S13年に自粛、翌年から廃止 3) 1939年(S14)8月6日、仙台七夕の飾りつけを廃止す 4) 1939年(S14)、8月6日から始まる仙台の七夕は廃止と決定した |
1) 阿南透 都市祭礼「仙台七夕まつり」の成立と変容 P8/ 2)「仙台市史 年表」P109/ 3)「仙台年表」P209 (その出典は「河北新報」)/ 4)「ものがたり東北本線史」(鉄道弘済会東北支部)P510 |
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三原時計店 | 大町の店、取壊し | 1927年(S2) | * 1927年(S2)、大町の店(時計塔のある土蔵造)を取り壊し、その跡にハイカラな時計塔のある店を新築 | あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43 | |
国鉄(戦後) 3 | 東北本線以外 | 1976年(S51)~1987年(S62)4月 |
* 1976年(S51)3月17日、公労協春闘24時間ストで国鉄幹線網マヒ * 1976年(S51)4月20日、交通ゼネストで、常磐線全面運休 * 1977年(S52)4月、仙台発列車のほか古川発にも禁煙列車追加 * 1978年(S53)4月13日、動労などスト突入、長距離列車全面マヒ * 1980年(S55)4月15日、国鉄・私鉄などストライキ * 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、東北線全面ストップ、仙石線も戦後初めて不通、仙台市内で11万戸停電 * 1981年(S56)10月1日、国鉄、「フルムーン」を発売 * 1982年(S57)2月15日、仙石線の榴ヶ岡・宮城野原・苦竹・福田町・陸前高砂・下馬・西塩釜駅業務を民間委託 * 1983年(S58)10月2日、仙石線に特別快速列車 * 1985年(S60)3月1日、仙台圏にグリーンライナー新型電車運転 * 1985年(S60)10月11日、閣議、国鉄を1987年4月に6分割・民営化を決定 * 1986年(S61)1月30日、仙台圏の電車は、4人掛けをロングシートに改造 * 1986年(S61)4月25日、仙台圏輸送改善のグリーンライナー第1号が仙台運転所に配属 * 1987年(S62)4月1日、国鉄分割民営化、仙台に東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)東北地域本社が発足、JRグループ11法人と国鉄清算事業団が発足 → <これ以降は、項目「JR東日本」へ> |
岩波ブックレット「年表 昭和史」P66、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P52、P53、P67、P80、P110、P120、P142、P166、P189、P201、P204、P221/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P75 | |
年中行事(まつり) | SENDAI光のページェント | 1986年(S61)~ | * 1986年(S61)12月12日~27日、第1回「SENDAI光のページェント」開催(定禅寺通りと青葉通り) | 「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P215 | |
三原時計店 | 空襲で焼失 | 1945年(S20) | * 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失 | 三原本店HP | |
国鉄(東北本線) 1 | 旅客・貨物輸送 |
1887年(M20)~1945年(S20)夏 |
<日本鉄道時代> * 1887年(M20)12月15日、上野~仙台~塩釜間、開通 / 合わせて仙台駅をはじめ白石、大河原、岩沼、岩切、塩釜等の各駅営業を開始 (当時は私鉄・日本鉄道) * 1887年(M20)12月20日、上野~仙台間の開通式挙行 * 1891年(M24)9月1日、日本鉄道の仙台~青森間が全線開通 <国有鉄道> * 1906年(M39)公布の鉄道国有法により、同年11月1日に国有化された(所管はM41年12月内閣鉄道院、T9年5月に鉄道省) * 1920年(T6)6月、仙台駅に急行列車登場(東北線経由と常磐線経由の上野~青森間に各1往復 / 上野・仙台間の所要時間は、東北本線経由8時間12分、常磐線経由8時間1分 / 料金(上野~仙台)は運賃(3等)2円62銭、急行券50銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P200) <戦時中> (所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省) * 1939年(S14)11月15日、国鉄ダイヤ改正、旅客列車を従とし、貨物輸送を主とする(戦時輸送完遂) * 1940年(S15)8月1日、上野・青森間急行103・104列車の食堂車廃止(食堂車を傷痍軍人用の病院車に改造) * 1940年(S15)8月、仙鉄局、見学旅行も一切認めない方針発表(このころ、すべての列車の乗車率が定員の2倍以上) * 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える * 1942年(S17)10月6日閣議決定、東北本線は石炭輸送第一、北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送 * 1943年(S18)2月、東北本線、食堂車、寝台車を全廃 * 1944年(S19)4月1日、決戦輸送体制、運賃値上げと厳しい旅客抑制、(乗車券を買うのに2日も3日も並んで待つ) * 1944年(S19)4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ(9月末、唯一の急行列車も廃止) * 1944年(S19)4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間(東北本線、常磐線の輸送計画は、14万8791人) * 1944年(S19)7月上旬~9月上旬、学童集団疎開輸送 * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、仙台駅、仙台鉄道局など焼失 |
<日本鉄道時代>「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200 <戦時中> 「ものがたり東北本線史」P511、P516、P518、P529、P530、P531、P546/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25 |
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三原時計店 | 戦後 | 1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店 * 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に * 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階 * 1978年(S53)、増築 * 1987年(S63)3月、創業100周年 |
三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217 | |
政党県支部など(戦後) | 日本社会党 | 1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月2日、日本社会党宮城県連合会結成大会開催 * 1950年(S25)2月4日、社会党宮城県連分裂 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P507、P540/「仙台市史10 年表」P310、P323 |
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