項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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安保反対闘争(1960年) | 60年安保闘争・仙台の動き | 1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対闘争」より転記> * 1959年(S34)3月、安保改定阻止国民会議結成 * 1959年(S34)4月、第1次全国統一行動 / 翌年10月まで23回にわたる統一行動 宮城県、仙台市での日米安全保障条約改定反対闘争 ・ 宮城県安保廃棄、改定阻止県民会議結成 * 1959年(S34)11月27日の第8次全国統一行動では、宮城県庁前広場大集会とデモ行進 * 1960年(S35)4月23日、東北大学川内と東分校両自治会が、安保問題討論集会(800人規模)、400人の学生が仙台市内で反対署名運動 * 1960年(S35)5月16日、仙台で、衆議院安保問題特別委員会の公聴会 / 県庁前で安保阻止県民会議(労組員、学生ら4000人集会)、安保条約批准反対の請願署名 * 1960年(S35)5月19日、20日未明、衆議院で強行採決 ・ 翌20日から強い反対運動展開、宮城県民会議では、国会解散と岸内閣打倒を重点に、総決起大会(6000人)とデモ行進 / 各労働組合が職場集会、東北大学生総決起集会(1500人)とジグザクデモ * 1960年(S35)6月4日、第17次統一行動 / 「安保条約阻止、岸内閣打倒、国会即時解散県民会議」総決起集会(政党・労組・仙台商工業者連合会・婦人団体・文化団体など1万5000人参加)/仙台市役所前で、安保婦人抗議集会(安保反対婦人協議会)/東北大学では、学生デモと有志教官団(250名)デモが大学本部から県庁前広場まで行進 * 1960年(S35)6月11日、第18次統一行動では、地区ごとの労組や婦人団体による抗議集会後に、県庁前広場に89団体、6500人 * 1960年(S35)6月17日、樺美智子さん県民追悼集会と追悼行進 / 6月18日、「安保批准阻止、岸内閣打倒、国会解散要求県民集会」、東北大学教養部ではストが続き、片平丁本部の学生も授業放棄して集会とデモ、一部学生が自民党県連事務所前に座り込み / 宮城学院女子大・短大有志が県民集会に参加 * 1960年(S35)6月19日、国会で自然承認され、23日に批准書交換 / 7月15日、岸内閣退陣 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P540~541 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P537(S35年、60年安保闘争で広瀬通りをゆくデモ隊、宮城県庁前での統一スト)/同541(安保反対を訴えるマッチラベル) |
大学紛争 | 仙台(1) | 1968年(S43)~1969年(S44)前半 |
<1968年(S43)> ・ 1月22日、東北学院大学、授業料値上げをめぐり学生の反対運動 ・ 2月8日、東北学院大学、新入生の学費値上げをめぐり大学内紛争、12日から期末試験を中止 ・ 11月16日、東北大学、大学本部が学生によって封鎖 <1969年(S44)前半> (1月19日、機動隊、東大安田講堂の封鎖解除、631人逮捕) ・ 5月23日、東北大学、大学立法に反対し、教養部で2週間スト ・ 6月2日、東北大学に学生により構内に引きずり込まれた私服警官を救出するため、機動隊出動して救出 ・ 6月5日、東北大学、事務局封鎖解除をめぐり、学生同士が乱闘、二百数十人負傷 ・ 6月25日、東北大学、反代々木系学生等、同大学理科実験棟を封鎖 |
岩波ブックレット「年表 昭和史」P49/「重訂 宮城県郷土史年表」P637、P638、P644、P649、P650/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、仙台市の中央通りに座り込む学生たち、大学講義棟封鎖) |
大学紛争 | 仙台(2) | 1969年(S44)後半 |
<1969年(S44)後半> ・ 7月1日、宮城教育大学、反代々木系学生が、同大学人文棟を封鎖 ・ 7月7日、東北学院大学に機動隊出動し、封鎖中の押川記念館を解除 ・ 9月18日、東北大学、教養部無期限スト、大学側は19日より前期試験を無期延期 ・ 9月19日、宮城教育大学、反代々木系学生が講義棟封鎖、大学側は19日より前期試験を無期延期 ・ 10月10日、「十月十日統一行動日」、仙台においてはじめてデモ隊が乗用車に放火、路上にバリケードを築き街頭闘争、学生9人逮捕 ・ 10月16日、東北大学工学部管理棟、全共闘学生が封鎖 ・ 10月19日、仙台市で、反代々木系学生宮城県反戦青年委員会のデモ、94人逮捕 ・ 10月21日、国際反戦デー、東北は7万人参加、仙台では反代々木系学生74人逮捕 ・ 10月29日、東北大文学部、教育学部を全共闘派封鎖 ・ 11月14日、東北大学の臨時評議会において封鎖解除のため機動隊導入を決定 ・ 11月22日、本川東北大学長、県警察本部に文書で学内封鎖解除のため機動隊導入を要請 ・ 11月23日、宮城県警察機動隊、東北大学構内に出動、封鎖されていた教養部理科実験棟など5つの建物全部の封鎖を解除 ・ 11月27日、東北大学、法・経・理の3学部授業再開 ・ 12月1日、東北大学教養部ロックアウト解除、文学部・教育学部も授業再開 (12月17日、文部省、大学紛争白書を発表、紛争大学合計124校) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P650、P652、P653、P654、P655 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、学生が大学講義棟を封鎖、 |
梅田川清掃運動 | 開始 | 1965年(S40) |
<梅田川浄化運動> 梅田川は、急速に発展した住宅街を流れるため、ごみが投げ捨てられ、汚水が流れ込み、きたない川の代名詞のようにいわれていたが、市民が汚水と悪臭の追放に取り組む / 毎月16日の「町ぐるみ清掃の日」に、流域住民総出で清掃 / 当初3年計画だったが、1年半で目標を達成した * 1964年(S39)10月(S40年3月?)、苦竹、中江地区の12町内会4200世帯と地域の衛生団体、東保健所などが参加して、梅田川浄化推進協議会結成 * 1965年(S40)3月29日、梅田川浄化運動大会 * 1965年(S40)5月、小田原から荒巻神明町にかけての29町内会による、北部地区梅田川環境美化推進協議会発足 * 1965年(S40)夏、ドジョウやフナを放流 * 1966年(S41)10月、美しい町づくり全国コンクール最優秀賞受賞(テレビで全国に紹介) <他の地域へ波及> このあと、六郷堀清掃運動(1968年3月~)、広瀬川、七郷堀、郡山堀など市内各地に河川浄化の取り組みが生まれる * 1968年(S43)5月、これら運動団体で仙台市愛護会結成 * 1980年代までに河川愛護会の構成団体は10団体となり、梅田川、広瀬川、七北田川、郡山堀、六郷堀、七郷堀、藤川で運動継続、毎年1万人以上が清掃の参加 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P248~249、P680/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 特別編4 市民生活」P541~542 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(ごみ捨て場となった梅田川)/同P430(S41年、市民が梅田川清掃)/「市民の戦後史(仙台市)」P189と「新・目で見る仙台の歴史」P191に「市民総出で梅田川清掃作業」/「市民の戦後史(仙台市)」P189(フナを放流) /同P212(住民たちが六郷堀川さらいで清掃)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(七郷堀を市民が清掃作業) |
公害・環境問題 | (3) | 1974年(S49)以降 |
* 1974年(S49)5月、仙台市上水道水源の釜房湖にプランクトン発生 * 1974年(S49)7月、仙台市で、騒音・振動公害測定車始動 * 1974年(S49)9月28日、広瀬川の清流を守る条例、仙台市が制定 * 1975年(S50)4月、蒲生干潟のヘドロ減少を県が報告 * 1975年(S50)5月、鶴ケ谷団地の大堤沼にホタルの幼虫300匹放流(S49年から) * 1975年(S50)6月5日、「杜の都の環境をつくる条例」に基づき、保存緑地28か所指定 * 1975年(S50)8月16日、仙台市清掃局、不要品あっせんコーナー開設(当時は全国でも珍しかった) * 1975年(S50)11月25日、塩釜市の小野田セメント・日本セメント・三菱セメントは、公害防止協定結ぶ * 1976年(S51)8月2日、北山輪王寺庭園に、ゲンジボタルの幼虫と卵7000匹放流 * 1984年(S59)5月25日、仙台市に、空き缶空き瓶選別センター発足 * 1985年(S60)12月5日(18日?)、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制) * 1986年(S61)4月1日、宮城県スパイクタイヤ対策条例(脱スパイク条例)施行 → 項目「スパイクタイヤ粉塵公害」参照 * 1986年(S61)5月4日、蔵王のブナと水を守る会発足 * 1986年(S61)5月28日、仙台市沖野に、六郷・七郷の環境をよくする会結成 * 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止 * 1996年(H8)3月、仙台市環境基本条例、制定 |
「続・ 宮城県郷土史年表」P30、P31、P40、P41、P42、P43、P47、P57、P177、P198、P204、P205、P206/「仙台市史 年表」P129/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P79、P84/仙台市HP「仙台市環境基本条例」 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業) |
スパイクタイヤ対策条例 | 施行 | 1986年(S61) |
* 1985年(S60)12月5日(18日?)、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制) * 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦 |
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P79/「続・ 宮城県郷土史年表」P198、P204 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業) |
スパイクタイヤ粉塵公害 | 脱スパイクタイヤ推進 | 1981年(S56)~1986年(S61) |
* 1981年(S56)1月27日、「河北新報」への投書が発端 * 1982年(S57)、仙台弁護士会、道路粉塵問題小委員会が検討開始 * 1982年(S57)10月、仙台市消費者協会、粉塵公害追放運動展開 / 仙台など各都市でスパイクタイヤ自粛運動 * 1982年(S57)11月2日、仙台市宮町商店街は、粉塵公害スパイクタイヤ自粛決議 ・ 中江商工振和会、仙台ゴミ追放婦人ロビー、環境運動団体などが脱スパイク運動 * 1982年(S57)11月22日、多賀城市はスパイクタイヤ使用自粛指示 * 1983年(S58)6月13日、仙台市、スパイクタイヤ対策本部を発足 * 1983年(S58)9月11日、宮城県がスパイクタイヤ対策本部発足 * 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意 * 1983年(S58)12月、市民による「脱スパイクタイヤ推進モデル地区」で折立地区を指定(ピン抜きや積雪時の門前雪かき) * 1984年(S59)1月20日、仙台市が、粉塵汚染で緊急事態宣言 * 1984年(S59)3月16日、名取市でタイヤのピン抜き所開設 * 1985年(S60)ころ、仙台市民によるスパイクタイヤのピン抜き活動が盛んになる * 1985年(S60)8月22日、仙台タクシー協会、スパイクタイヤ全廃方針たてる * 1985年(S60)10月、高橋栄(八木山本町)が、無公害スパイクピン実用化 * 1985年(S60)12月5日、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制) * 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦 * 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P543~544/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P58/「仙台市史 年表」P133、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P152、P153、P166、P168、P172、P174、P194、P196、P197、P198、P204/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P84 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業) |
物価上昇 | 反対運動/行政の対策 | 1973年(S48)~1974年(S49) |
* 1973年(S48)7月、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急外に関する法律」制定 * 1973年(S48)11月7日、宮城県生活協同組合連合会、仙台通産局に、灯油確保、便乗値上げ防止を陳情 * 1973年(S48)11月11日、物価メーデー(宮城県春闘共闘委員会主催)「インフレ防止、物価値上げ反対、生活防衛」を掲げて、デモ行進と集会(県労評主婦の会など市民団体、労働団組合など24団体、6000人参加) * 1973年(S48)11月14日、衆議院物価問題等に関する特別委員会地方懇談会(於:宮城県庁) / 宮城県各種婦人団体連絡協議会など発言 ・ 仙台市消費者団体連絡会(市内8団体)が行政当局と話し合い / 消費者団体が街頭で呼びかけ * 1973年(S48)11月、宮城県、生活物資等需給安定緊急対策要綱策定 * 1973年(S48)12月、国民生活安定緊急措置法制定、物価統制令改正 * 1974年(S49)5月、仙台市物価監視委員制度主婦モニター制度、制定 * 1974年(S49)12月、仙台市消費生活をまもる条例、制定 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P544~545 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会) |
戦後の物資・価格統制撤廃 | 戦後 | 1945年(S20)~1949年(S24) |
戦時中(S12~20年)の物資・価格統制については → 項目「戦時中の物資統制、使用規制」参照 * 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可 * 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる * 1946年(S21)3月3日、物価統制令公布(価格等統制令は廃止、いわゆる「3・3物価体系」)(「岩波年表」P25) * 1946年(S21)7月23日、衣料切符の発行を停止、以後は割当配給となる(「菅家年表」P36) * 1947年(S22)3月5日、内相、警察取締りによる主食供出を訓示(いわゆる強権供出)(「岩波年表」P26) * 1947年(S22)10月1日、衣料切符制を継続(S24年4月まで続く)(「菅家年表」P41) * 1947年(S22)10月27日、果物など132品目の公定価格を廃止(菅家年表」P41) * 1949年(S24)4月1日、野菜の価格統制、配給統制を撤廃、競り売りを再開 * 1949年(S24)5月1日、料理飲食店を再開 * 1949年(S24)5月6日、酒が自由販売となる * 1949年(S24)6月1日、ビアホールも再開 * 1949年(S24)9月10日、米の配給所が「米屋」に復活 * 1949年(S24)9月14日、東京鉄道局管内では、急行、準急の乗車券が全部自由販売となる * 1949年(S24)10月、絹布の統制撤廃(自由販売) * 1949年(S24)11月、アドバルーン広告が解禁 |
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P36、P41、P43/岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P55(S24年、衣料配給に集まる市民)/「市民の戦後史(仙台市)」P36(衣料切符) |
市場 | 明治期 |
* 1880年(M13)12月16日、「長町青物市場」を名取郡の野菜生産農家が開設 * 1881年(M14)10月25日、青物市場が「河原町市場」に一本化され、長町市場は閉鎖される * 1892年(M25)6月25日、「長町青物市場」を名取郡茂ケ崎村長町に開設 * 1892年(M25)7月30日、「共同八百屋市場」、河原町・新河原町に開設 |
「仙台市史 年表」P83、P84、P88 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P87(明治期の長町青物市場) | |
住宅団地 | 将監団地 | 1968年(S43) |
* 1968年(S43)、泉町に造成開始(県開発公社がS50年にかけ造成) * 1970年(S45)、県営住宅として、泉町に将監住宅412戸を建設 * 1972年(S47)2月、噴水池完成 * 1972年(S47)5月26日、公設小売市場オープン * 1974年(S49)7月、18業者による協同組合公設小売市場完成 * 1978年(S53)5月20日、ファミリーデパート、オープン |
「新・目で見る仙台の歴史」P186/「仙台市史 年表」P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P10、P31、P81 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P91(S49年、将監公設小売市場)/「新・目で見る仙台の歴史」P186(H1年頃の将監団地、俯瞰カラー) |
金属回収 | 市電レール | 1944年(S19) | * 1944年(S19)3月、市電芭蕉の辻線が廃止となり、レールを剥がして、戦時金属回収のため供出 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P92 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール) |
戦時中の物資統制、使用規制 | (3) | 1940年(S15) |
* 1940年(S15)2月10日、マッチ製造配給令施行(6月1日から東京市で切符制) * 1940年(S15)2月13日、米穀配給統制規則を公布、施行 * 1940年(S15)3月28日、アルミ貨の10銭、登場 * 1940年(S15)4月8日、石炭配給統制法公布(岩波「年表 昭和史」) * 1940年(S15)4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目を配給、切符制採用 * 1940年(S15)5月3日、東京で外米6割混入を配給開始 * 1940年(S15)6月1日、東京市など六大都市で、砂糖(1人1か月、0.6斤=360g)、マッチ(人数制)、米、みそ、塩、木炭など10品目が切符制になる / 11月1日、全国で実施 * 1940年(S15)7月6日、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造禁止(奢侈品等製造販売制限規則公布) / 一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた * 1940年(S15)7月8日、マル公など価格表示義務の明確化始まる(岩波「年表 昭和史」) * 1940年(S15)7月10日、青果物配給統制規則を公布施行 * 1940年(S15)7月20日、菓子類に公定価格制 * 1940年(S15)8月1日、東京府、食堂・料理屋などでの米食使用禁止・販売時間制限等を実施(岩波「年表 昭和史」) * 1940年(S15)8月8日、小麦粉配給統制規則公布、うどん、そばが統制となる * 1940年(S15)10月4日、砂糖、マッチ配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」) * 1940年(S15)10月24日、米穀管理規則公布(町村別割当供給制の実施)(岩波「年表 昭和史」) * 1940年(S15)10月25日、鶏卵配給規則を公布 * 1940年(S15)11月5日、大豆、大豆油等配給統制規則施行 * 1940年(S15)、この年、酒、ビールの製造を制限 |
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P24、P25/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17 仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P94(S20年、北材木町配給所でのコメの配給)/同P95(砂糖配給のお知らせ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P438(S15年、戦時中に配給演習を行う仙台味噌醤油小売商業組合) |
長町駅(JR) | 開業 | 1896年(M29) |
<JR東北本線・長町駅> * 1894年(M27)10月、日本鉄道の長町駅完成 * 1894年(M27)10月30日~11月3日、第2師団が長町から出征(日清戦争)(「仙台市史 年表」P89) * 1896年(M29)2月21日、一般営業(民用の駅として)開業(「仙台市史 年表」P89) * 1923年(T12)、2代目駅舎に改築 * 2006年(H18)9月18日、JR駅が高架化(翌日から、2代目駅舎撤去開始) |
「仙台市史 年表」P89/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月) | 「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?) |
愛宕橋(広瀬川) | 吊り橋開通 | 1901年(M34) |
* 古くは誓願寺渡し * 1901年(M34)に吊り橋(仙台初) * 1903年(M36)2月11日、架設 * 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し |
「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋) |
殉国勇士の家 | 日中戦争以降 |
仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰 <参照> → 項目「兵事義会/銃後奉公会」 「誉輝く軍国の家」(河北新報) 「河北新報は中国と戦争を始めてから5年目の昭和17年7月、1家族で2人以上の戦死者を出した宮城県内の12家族を「誉輝く軍国の家」として取り上げています。・・・「お国のために散ったこと、親としてこんなうれしいことはありません」・・・・肉親を戦争で失った家族には、涙と絶望が数多くありましたが、人々はそれを平静というオブラートに包んで冷静を装っていました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12/「仙台市史 特別編4 市民生活」P315/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P79 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標) | |
兵事義会/銃後奉公会 | 仙台市銃後奉公会 | 1939年(S14)4月~ |
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる * 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称 ・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰 |
「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標) |
国鉄(東北本線) 2 | 旅客・貨物輸送 | 1945年(S20)秋~1965年(S40) |
<戦後(昭和24年6月からは国鉄=公共企業体日本国有鉄道)> * 1945年(S20)11月、上野~青森間急行1往復(101・102列車)が運転再開、しかし翌月、深刻な石炭不足になり再び一時運休 * 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始、二等車復活 * 1947年(S22)7月1日、青森行き普通列車に「婦人子ども専用車」登場(「菅家年表」P41) * 1947年(S22)11月1日、東北で木炭が滞貨となり、輸送のため「木炭列車」を運転 / 国鉄はこの秋、電力、石炭の不足で貨車の入れ替えにも支障が出る(「菅家年表」P41) * 1948年(S23)7月1日、上野~青森間直通急行は東北本線経由の1往復(103・104列車)運転開始 * 1949年(S24)6月、日本国有鉄道法施行、公共企業体日本国有鉄道発足 * 1958年(S33)10月10日、東北初の特急列車「はつかり」、上野~青森間を常磐線経由で運転開始(「仙台市史 年表」P120) / 蒸気機関車、仙台~上野間5時間25分 / 上野~青森12時間 * 1960年(S35)12月10日、「はつかり」(常磐線経由)が気動車(ディーゼル)特急となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P598)/ 常磐線経由で * 1961年(S36)3月、仙台まで交流電化完成(「仙台市史 特別編4 市民生活」P201) * 1961年(S36)5月1日、東京~仙台間電化され、特急電車が走る(「菅家年表」P55) * 1961年(S36)6月1日、「宮城野駅」(貨物専用駅)開業(同時に、仙台中央卸売市場への引き込み線完成) / 前年10月、長町~東仙台間に貨物線開通 * 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122) * 1962年(S37)6月30日、東北本線の山廻線(利府駅経由)を廃止 * 1963年(S38)4月、修学旅行専用の「おもいで号」誕生 * 1963年(S38)10月、市内大梶(仙台駅・東仙台駅中間)に電車基地(または仙台運転所)を設置 / S41年4月全面完成 * 1964年(S39)3月20日、上野~仙台間の全急行を電車化 * 1965年(S40)10月1日、特急「ひばり号」(仙台~上野)を2往復に増便、特急「やまびこ号」(盛岡~上野)運転開始 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P562、P564、P566~567、P571/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P589、P598、P605/Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P55/「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P566に、仙台上野間急行電車の写真 |
特急ひばり | 上野~仙台間 | 1962年(S37)~1982年(S57) |
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122) * 1982年(S57)11月22日、特急「ひばり」(上野~仙台)お別れ運転(この年6月23日、東北新幹線が大宮~盛岡間で開業) |
「仙台市史 年表」P122/「続・ 宮城県郷土史年表」P153 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567に、特急「ひばり号」の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P58(S37) |
国鉄(戦後) 2 | 東北本線以外 | 1966年(S41)~1975年(S50) |
* 1966年(S41)3月5日、運賃値上げ、旅客31% * 1966年(S41)7月、北目町に国鉄ビル完成(地上6階地下1階) * 1967年(S42)10月1日、常磐線、電化し営業運転を開始 * 1968年(S43)4月1日、国鉄丸森線、槻木~丸森間営業開始 * 1969年(S44)5月9日、運賃15%値上げ * 1969年(S44)5月10日、1、2等車を廃止、グリーン車ができる(「菅家年表」P63) * 1970年(S45)1月22日、指定乗車券がコンピューターによる発売となる(「菅家年表」P64) * 1970年(S45)7月21日、東北支社廃止決定 * 1972年(S47)3月15日、仙台(宮城野駅)~東京間(小名木川駅)、フレートライナー(鉄道とトラック輸送を直結したコンテナ輸送)往復運転開始/ 同日、長距離普通列車228号(青森~上野間)引退 * 1972年(S47)4月1日、運賃改正にあわせて、仙台市内11駅を市内扱いに改正 * 1972年(S47)4月27日、国労・動労が空前のストライキ * 1973年(S48)12月4日、公労協全日ストで国鉄ダイヤ大混乱 * 1973年(S48)8月、鉄道弘済会の売店をKIOSK(キオスク)と呼称(「菅家年表」P67) * 1974年(S49)3月26日、国労・動労、正午まで準ゼネスト * 1974年(S49)4月11日、春闘で空前の交通スト(600万人参加、国鉄初の全面運休)、4月13日収拾 * 1974年(S49)10月、仙台鉄道管理局管内からSLが完全に姿を消す * 1974年(S49)11月27日、国鉄48時間スト * 1975年(S50)5月9日、春闘で交通ゼネスト、国労・動労はスト中止 * 1975年(S50)11月26日、公労協・国労・動労などがスト権奪スト、12月4日スト中止(国鉄全線、史上最長の192時間運休) * 1975年(S50)12月1日、東北公労協ストで、仙山線完全ストップ |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567/岩波ブックレット「年表 昭和史」P55、P56/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P635、P639、P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P8、P9、P25、P28、P34、P41、P47/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P63、P64、P67、P68 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P569に、仙台の国鉄ビルの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P199(S42年3月、国鉄原町操車場空撮) |
電力ホール | オープン | 1960年(S35) | * 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地上9階建)が東二番丁70に完成 / 電力ホールのほか、グランドホテル仙台、貸室、市民図書館分室を併設 / 電力ホールは7~9階で、各種催しに活用 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596~597 | |
東北電力 | 仙台火力発電所/新仙台火力発電所 | 1960年(S35)/1971年(S46) |
* 1957年(S32)6月29日、七ヶ浜町で起工式 * 1959年(S34)7月2日、1号機に火入れ/11月に完成 * 1960年(S35)2月20日、運転開始(17万5000KW) * 1960年(S35)12月1日、2号機完工式 * 1962年(S37)6月、3号機完成(1・2・3号機で計52.5万KW) * 1969年(S44)7月、新仙台火力発電所1号機、工事着手 * 1971年(S46)8月20日、新仙台火力発電所1号機、営業運転 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P585、P593、P594、P595、P598、P605、P651/「続・ 宮城県郷土史年表」P1 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P599の写真137(仙台火力発電所)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S37年6月、仙台火力発電所(1・2・3号機)外観) |
日乃出映画劇場 | 出火 | 1956年(S31) | * 1956年(S31)2月5日、日乃出劇場出火 / 午後8時45分頃、ボイラー室付近から出火、北西11mの強風(瞬間最大19m)、出動消防車14台 / 火元の日乃出劇場(地下劇場、ニュース劇場、棟続きの日乃出中華など)891平方mを全焼 / 隣接の仙台ホテル、東宝劇場などの一部も焼いて、午後10時すぎ鎮火 / 火の粉は遠く連坊小路、薬師堂まで飛び、延焼が心配された | 「市民の戦後史」P53/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822~823/「仙台の歴史(80周年)/「わが心の仙台駅前史」年表 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P623の写真199(強風化に炎上する日乃出劇場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(炎上する劇場) |
医療機関 | 仙台市立榴岡病院 | 1922年(T11) |
伝染病隔離専門病院 * 1922年(T11)5月1日、「仙台市伝染病院」が「仙台市立榴岡病院」と改称して常設病院となる(木造平屋建て) * 戦後、赤痢大流行 / 患者・保菌者が、S21~S22に県内約3000人、仙台市1000人 / S25~S27に連続して爆発的に発生し畳敷きの部屋まで病室に転用 * 1952年(S27)12月~1955年(S30)5月、3期に分け増改築 / 木造平屋6棟に代わって完成 * 1957年(S32)1月、増築完成(病床、計106床に) ・ 1960年(S35)の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生) * 1980年(S55)、榴岡病院廃止 |
「仙台市史 年表」P101/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717~721/「仙台市史 特別編4 市民生活」P395 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P718に、改築後の写真/「目で見る仙台の歴史」P182(S30年改築の病院)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P396 |
国立仙台病院 | 開院 | 1945年(S20) |
<前身> * 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院の宮城野原臨時分院(宮城野分院?)、発足 * 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所(宮城野原)に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398) <戦後は、国立病院へ> * 1945年(S20)12月、旧陸軍省から厚生省に移管され国立仙台病院となる / 木造で、内科、外科など5科、500床 * 1952年(S27)から、本格的な病棟建設に着手 * 1954年(S29)11月、高血圧センター開設 * 1957年(S32)、総合病院となる * 1958年(S33)1月、心臓診療センター開設 * 1958年(S33)10月25日、「国立仙台病院」(原町南目)完工式(着工は、S26年12月) * 1959年(S34)1月1日、ガンセンターを設置 * 1960年(S35)1月、小児診療センター開設 / 2月、小児マヒ治療用「鉄の肺」 * 1965年(S40)3月、救急病院指定 * 1967年(S42)7月、脳神経センター開設 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P728~729/「重訂 宮城県郷土史年表」P590 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P729/「目で見る仙台の歴史」P192 |
医療機関 | 西多賀病院 | 1934年(S9)/1947年(S22) |
<前身> * 1934年(S9)10月、仙台市が結核専門診療所、仙台市立西多賀病院を設置 * 1943年(S18)4月、日本医療団に統合され、日本医療団西多賀病院となる <国立へ> * 1947年(S22)4月、厚生省に移管、国立西多賀病院となる * 1954年(S29)、新病棟完成 / その後、玉浦療養所を統合 結核患者の減少と共に、カリエス、心身障碍児収容施設へ * 1957年(S32)4月、玉浦診療所内にベッドスクール開設 * 1967年(S42)3月、重症心身障碍児収容 * 1968年(S43)1月、進行性筋萎縮症患者収容 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P396/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P729~730 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P730に、西多賀ベッドスクールの卒業式写真/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年3月、西多賀ベッドスクール誕生)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P396(西多賀療養所療養所兼教室) |
がん検診センター(宮城県対がん協会) | 協会結成/検診センター完成 | 1958年(S33)/1968年(S43) |
* 1958年(S33)9月、宮城県対がん協会結成(北七番丁) * 1960年(S35)、集団検診車登場、東北各地に出張診断 * 1963年(S38)8月、第1回がん対策推進全国大会、仙台で開催 * 1963年(S38)9月、第15回保健文化賞受賞(間接撮影装置の開発とその車両化、広範ながん対策推進の功績に対し) * 1964年(S39)9月、婦人科がん検診車完成(農協婦人部中心に拠出) * 1966年(S41)6月、検診車「第二きぼう号」稼働 * 1967年(S42)1月、河北文化賞受賞 * 1967年(S42)9月2日、宮城県対がん協会検診センター着工 * 1968年(S43)6月10日、宮城県がん検診センター完成(北六番丁、鉄筋コンクリート5階建て / 全国初) * 1979年(S54)12月3日、乳がん検診車稼働 * 1981年(S56)5月11日、新らたながん検診センター(上杉6丁目)診療開始 * 1986年(S61)9月5日、対がん協会に、きぼう18号・しあわせ3号の検診車両配備 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P734~736/「重訂 宮城県郷土史年表」P634、P640/「続・ 宮城県郷土史年表」P104、P128、P210/「市民の戦後史(仙台市)」P146 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P735(がん検診車)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(第1回がん対策推進全国大会)/「新・目で見る仙台の歴史」P195(胃の集団検診車「きぼう」、カラー) |
火葬場 | 仙台市営火葬場 |
* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管 * 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置 * 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態 * 1947年(S22)2月、電気炉5基設置 * 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真 | |
霊園/墓園 | 北山霊園 | 1948年(S23)/1951年(S26) |
仙台市が、市北部北山町の高台に面積5.3haの霊園を造成し、戦災を受けた元寺小路地区の4寺社の墓地(0.86ha)を移転するとともに、同墓園周辺地区を拡張し市営墓地として市が経営 * 1948年(S23)10月、仙台市が、元寺小路や東三番丁の墓地を移転させるため造営開始 * 1951年(S26)10月に一部完成し、墓地移転が始まる / 戦災復興整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に、新造成した北山霊園の一部を、墓地用地(5.7ha)として配分 * 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓地1648基移転終了、無縁墓地600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨 * 1956年(S31)6月、残りの用地(7.8ha)は市営墓地とし、市民に開放 ・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333、P743~744/「仙台市史 年表」P115、P117 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P743(北山霊園)/「目で見る仙台の歴史」P171(北山霊園の空襲犠牲者慰霊供養碑)/同P178(霊園) |
敗戦後の諸相・仙台 | 浮浪児/戦災孤児/ホームレス |
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757】より ・ 仙台駅周辺や地下道を根城にして、通行人に金銭やタバコをねだる ・ 人数は40~50人、取締りがあると5、6人に減る / 東京ノガミ(上野)で浮浪児狩りがあると100人、200人に増えることもあった ・ 警察調べ(S23年6月17日午前2時) 計104人、このうち16歳未満が49人、40歳以上も11人 / 各年齢層とも女性が2割だった ・ このほかに、かつぎ屋やいなか回り(集団こじき)で出先に泊まる者が100人以上 ・ 夜12時すぎの最終列車のあと、駅の待合室は浮浪児などのねぐらになり、持ち物は茶碗2個とモクヤ(拾ったたばこ)を入れた風呂敷のみだった ・ 香具師、博徒、ヤミ屋の手先に使われ小遣銭を稼ぎ、ゆすり、万引き、スリ、野荒しなどの犯罪を犯し、施設に収容されても、毛布などを失敬して脱走するものが多かった 【「戦争のころ 仙台、宮城」P249】より ・ 仙台駅や駅に近いX橋(エックス橋)脇の東北線名掛丁地下道には戦災で家を失った大人や子供たちがたむろし、通行人に金銭やタバコをねだっていた ・ <仙台市内のホームレス>(昭和23年6月、仙台北警察署調べ)104人で、18歳未満が半数を占め、このうち2割は女性 / ほかにもかつぎ屋や田舎を集団を回るこじきなどが100人以上いた ・ <戦災孤児>(厚生省調べ) 空襲で両親を失ったり、満州から帰還する途中で両親が死亡したりした戦災孤児が、全国で12万2300人、宮城県は1559人 ・ 宮城県内では、戦災孤児が231人(仙台空襲で両親死亡や宮城県に学童疎開中に東京大空襲で肉親を失った子など)、引揚げ孤児232人(満州などから引揚途中で両親が死亡)、一般孤児(この意味は不明)1074人、捨てられた孤児22人 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P249 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P748と「新・目で見る仙台の歴史」P170に、「たむろする浮浪児たち」の写真 | |
敗戦後の諸相・仙台 | 町の流通機構ヤミ市(1)仙台駅周辺 | 1945年(S20)~ |
<バラック建ての仙台駅周辺> ・ 終戦直後いちはやくヤミ市が出現、物流はもっぱらこの“まちの卸屋”で行われ、「東北の上海」などといわれた * 1945年(S20)9月、露店にヤミ市が並ぶ(「仙台あのころこのころ八十八年」P250) * 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋(エックスバシ)間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215) * 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。 焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけに望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158) ・ 名掛丁には、通称“浅草楽天地”と呼ばれたバラックのマーケット街が出現、軍物資、ヤミたばこ、覚醒剤などが密売され、夜の女や不良の温床でもあった(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75) ・ 「仙台でのやみ市は、仙台駅前地区、東一番丁地区に10カ所あまりの青空市場ができたが、そば、ウドン、パン、いもなどの食べ物を中心に、食料品、衣料品、雑貨など統制物資までをも加えて法外な値をつけていた。市(いち)とまではならないが、東一番丁の空き地、大道に露天商が並び、戦後しばらく定職をもたないものはヤミ商人になったとまでいわれるようになる。(中略) 昭和21年5月の一斉取締りで仙台北警察署は東一番丁、仙台駅前、大学病院前の3か所から45名を検挙」(番丁詳伝」P159) ・ 仙台駅前(西側)のヤミ市(「戦災復興余話」P45~49より) 青葉通りなどの新設道路予定地や不在者宅地内にできたヤミ市で、ビッグ・スリーは、駅前マーケット(東五番丁/昭和24.10.10~31に市が代執行し80戸を強制撤去)、新興マーケット(仙台駅前/昭和25.3に14戸撤去)、国際マーケット(裏五番丁/昭和25.7に、28戸強制撤去) / 国際マーケット(203坪)の所有者は野路清蔵市会議員 【参照】 ヤミ市など不法建築物の強制撤去は、 項目「戦災復興事業」の小項目「不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺」、小項目「不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町」に詳述 <青空市場> ・ ヤミ市には、クツみがき、輪タク、街の女がたむろし、スイトン、しるこ、カストリ焼酎などは引っ張りダコ、なんとか飢えをしのごうという人たちで食べ物屋は大繁盛した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196/「戦災復興余話」P45~49/「わが心の仙台駅前史」P38/「仙台あのころこのころ八十八年」P250(年表)/「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158~159 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P772に、「町を行くやみ屋の列」(S25年3月、仙台駅前付近) |
警察署 | 仙台南警察署 | 1944年(S19)~ |
<新設され、堰場に開庁> * 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁 <舟丁へ移転> * 1962年(S37)9月12日、新庁舎、舟丁に落成 <長町へ移転> * 1993年(H5)、庁舎を長町(太白区長町6丁目)に移転 * 2019年(H31)4月1日、仙台市若林区を新設の若林警察署に移管 |
Wikipedia「仙台南警察署」/「重訂 宮城県郷土史年表」P606 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P780に、「改築後の仙台南警察署」 |
警察署 | 仙台東警察署 | 1956年(S31)~ | * 1956年(S31)9月1日、発足(原町苦竹/宮城野区南目館21) | 「仙台市史 年表」P119/「重訂 宮城県郷土史年表」P582/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798に、「仙台東警察署庁舎」 |
敗戦後の諸相・仙台 | 食糧買い出し |
・ 欠配続きで、農村へ食糧買出しのため列車は連日超満員 / 仙鉄局が無蓋貨車を臨時運転し人を運ぶ ・ 子どもも買出しに動員されたため、県は国民学校、中学校に対し校長の自由裁量で午前授業だけで打ち切るよう通達 ・ 郊外から物資を買い集めてきてさばくカツギ屋とよばれる人々もあらわれた。 ・ 衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。 ・ 1953年(S28)10月、凶作によりヤミ米横行、菓子工場、旅館など一斉取締り(「仙台あのころこのころ八十八年」P252) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72/「仙台あのころこのころ八十八年」P252 | 「仙台市史 続編第1巻」P72の写真(満員の買出し列車)/「新・目で見る仙台の歴史」P173(仙山線ホームのカツギ屋の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P104(仙台駅で押収されたヤミ米の山)/同105(列車で買出しに行く「カツギ屋」たち) | |
住宅団地 | 旭ヶ丘団地 | 1957年(S32) | * 1957年(S32)、旭ヶ丘団地(130ヘクタール)、東北開発会社が計画、造成開始(仙台の団地開発第1号) | 「仙台市史 年表」P120 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P147の写真37/「市民の戦後史(仙台市)」P190 |
青葉神社 | 神輿渡御復活 | 1948年(S23) |
* 1948年(S23)5月23日、青葉祭 / 春の例祭で神輿渡御が13年ぶりに行われ、あわせて甲冑の武者行列も * 1961年(S36)5月のゴールデンウィーク、全市あげて青葉神社祭典(武者行列、神輿渡御、相馬浪江の相撲甚句や宝財おどり) |
「仙台市史 年表」P115/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182、P714 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182の写真49/「市民の戦後史(仙台市)」P226(5月の青葉神社例祭の武者行列) |
政宗卿騎馬像 | 戦後の復元 | 1964年(S39) |
* 1953年(S38)5月31日、仙台市観光協会が、政宗公騎馬像の復元を決める * 1964年(S39)10月9日、復元騎馬像除幕式 ・ 仙台観光協会が1700万円をもって政宗公の旧銅像を鋳型(元の原型)により再鋳造し、旧位置(青葉城本丸)に再建して除幕式を挙行 ・ 市役所内に再建委員会が設けられ、島野市長が委員長となって広く募金 / 原型は、製作者小室翠雲の郷里柴田町船岡に保存されていた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P616/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185の写真51と、「市民の戦後史(仙台市)」P158に「復元なった騎馬像」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P85(S39) |
隅櫓 | 復元 | 1967年(S42) |
昭和35年頃、仙台市の民生委員をしていた野口増蔵氏が大手門と隅櫓の復元を目指し、一般に呼びかけた / 膨大な資金を要するのでとりあえず隅櫓を復元 / 野口自身棟梁だったので、私財をなげうち乏しい資金に苦しみながらも工事を進め、S42年11月ついに完成(「仙台市史 続編第2巻」P185~186) * 1963年(S38)2月上旬、隅櫓の復元工事着手 * 1965年(S40)8月、着工の運びとなる(木造漆喰塗込み) * 1967年(S42)12月25日、隅櫓が民間(仙台城大手門並に隅櫓復興期成会)により外観復元され、復興期成会より仙台市に寄付された |
「重訂 宮城県郷土史年表」P607、P620、P636/「仙台市史 年表」P125/仙台市HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185~186/「仙台あのころこのころ八十八年」P257 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P186の写真52(復元された隅櫓)/「市民の戦後史(仙台市)」P202(復元された隅櫓)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P71(S39、工事中断中の隅櫓) |
宮城県護国神社/宮城神社 | 戦災、戦後 | 1945年(S20)/1946年(S21) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で社殿を焼失、ご神体は市内の秋保神社・仮宮に遷された * 1946年(S21)、「宮城神社」と改称(GHQによる神道指令に基づく政教分離により) * 1952年(S27)7月、宮城神社上棟式 * 1953年(S28)4月28日、宮城神社奉斎殿、青葉通り大町頭に竣工 / 4月28日~5月7日、清祓並びに新殿祭・遷座祭・合祀祭・春季例祭・臨時慰霊祭等を行う / 奉斎殿は、S26年4月着工、28年4月竣工、神殿造延坪200坪、2階建て * 1954年(S29)8月6日、本殿造営御木曳祭 * 1955年(S30)8月1日、本殿柱立式 * 米軍が去った1957年(S32年)に社名を「宮城縣護國神社」に戻し、1958年(S33)に伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を移築 * 1968年(S43)4月、新社殿落成 <「戦争のころ 仙台、宮城」P38> ・明治以降の戦死者、戦病死者約5万6000柱をまつる |
Wikipedia「宮城県護国神社」/「仙台年表」P231、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P515、P557、P563/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188の写真54(戦後再建した護国神社)/「目で見る仙台の歴史」P194(大町頭の宮城神社奉斎殿) |
土井晩翠 | 歌碑、詩碑 | 1952年(S27) |
<樗牛瞑想の松の歌碑> ・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた * 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」) <荒城の月詩碑> * 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328) * 1952年(S27)8月11日、荒城の月四節全文、青葉城址に建立、除幕式(「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台市史 続編第2巻]P270) ・ 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が荒城の月詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189) <詩碑「天地有情」> * 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置 |
「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P270/「市民の戦後史(仙台市)」P70/「仙台市史 続編第2巻」P189 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(荒城の月詩碑)/「目で見る仙台の歴史」P137に「晩翠肖像写真」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(晩翠草堂と詩碑)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑、市葬) |
仙台市博物館 | 1961年(S36)/1986年(S61) |
* 1951年(S26)12月、旧仙台藩主伊達家が、伝来の文化財を市に寄贈、覚書を交わす * 1961年(S36)6月、仙台城三の丸跡に、第1期工事(鉄筋コンクリート2階建)完成(湿気抜きのため、開館は翌S36年10月10日)/ 落成記念特別展覧会「桃山美術名宝展」 * 1963年(S38)第2期工事、1968年(S43)第3期工事完成 * 1969年(S44)4月、増築完成(新館) * 1986年(S61)3月1日、新装オープン(新博物館) <「伊達家寄贈文化財目録」発刊> ・ 古文書古記録類約8000点、美術工芸品類約4000点 ・ 1965年(S40)12日、古文書編Ⅰ / 1966年(S41)12月、古文書Ⅱ・記録編 / 1968年(S43)6月、美術工芸編 <収集活動> ・「慶長遣欧使節関係資料」(S41、国の重要文化財指定)など郷土関係資料の収集保存 <関連> (1) 「魯迅の碑」 1961年(S36)12月4日、仙台市博物館前庭に建立、除幕式(発起は、日中友好協会宮城県連合会) / 「重訂 宮城県郷土史年表」P600では、S36年4月に除幕式、魯迅夫人許広平臨席 (2) 「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」 1978年(S53)5月2日、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建 / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている (3) 「阿部次郎記念散歩道」 1987年(S62)8月21日完成、仙台市博物館起点に1.28km/哲学者・ 阿部次郎東北大学名誉教授(1883~1959年)を記念する散歩道で、石田名香雄総長時代に、生誕百年を記念して大学と仙台市が協力して4kmほどの周回散策路を整備し、「三太郎の小径」と名付けた (4) 「島野武市長胸像」 1987年(S62)11月6日、博物館前に、建立 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P193~194、P445~447/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P600、P601、P648/「仙台市史 年表」P122、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P203、P228、P232/「日中友好協会宮城県連合会」HP/「市民の戦後史(仙台市)」P217 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194の写真56(博物館の開館式)、P445の写真128(博物館外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P128(完成した博物館外観、収蔵品の「六十二万石の知行状」、二の丸の襖絵)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(魯迅の碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P150(阿部次郎、同氏句碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(展示会場)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(S44年1月、博物館増築完成した建物) | |
競馬 | 県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 | 1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった * 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314) * 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため * 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118) * 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議) * 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200) |
「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃) |
宮城県民会館 | 開館 | 1964年(S39) | * 1964年(S39)8月27日、定禅寺通櫓丁に落成開館(1700人収容) / 地下1階、地上6階、大ホール(固定席2000)、中ホール(270席)、集会室、会議室、娯楽室など | 「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206の写真59/「市民の戦後史(仙台市)」P159 |
陸奥国分寺跡 | 薬師堂、国重要文化財に指定 | 1903年(M36) |
【宮城県HPの「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。 大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。」 【公益財団法人仙台観光国際協会仙台観光情報サイト「陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗公の命により再建された陸奥国分寺の金堂です。慶長12(1607)年落慶した現存する仙台最古の木造建築物の一つで、国指定重要文化財です。本尊薬師如来に因み薬師堂と通称されています。 天平年間に聖武天皇の勅願に基づいて建立された金光明四天王護國之寺のうち最北に位置する奥州鎮護の根本道場です。」 * 1607年(慶長12年)、国分寺薬師堂の再興造営なる * 1903年(M36)4月15日、薬師堂、国の重要文化財に指定(文化庁、文化財データベース)/ 桃山時代の堂宇、白木造り / 明治36年以来国宝(史跡)に指定されていたが、戦後文化財保護法により改めて、重要文化財に指定(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216) * 発掘調査(S30~33年、毎年8月に発掘) <参考資料> ・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216(薬師堂の堂宇の特徴など)、P223~224(国分寺跡の概要説明、発掘踏査など) |
宮城県公式HP「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」/「仙台市史年表」P25/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216、P223~224/「目で見る仙台の歴史」P195 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216の写真63(薬師堂)/同P223(発掘調査)/「目で見る仙台の歴史」P19(国分寺跡、金堂跡)/同P190(薬師堂ごまたき)/同P195(国分寺跡発掘調査)/同P38~39(薬師堂の社殿、厨子、護摩壇」、仁王門)/「市民の戦後史(仙台市)」P83(国分寺跡一帯空撮、出土した瓦、発掘現場)/「市民の戦後史(仙台市)」P225(2月13日の薬師堂ごま焚き) |
土井晩翠 | 晩翠草堂 | 1949年(S24) |
「晩翠は戦災で本荒町の自宅と共に、50年にわたって集めた3万巻余の蔵書や貴重な美術品を焼失、一時は「天われを滅ぼせり」と嘆息し、花壇川前町の仮寓で生活していた。しかし晩翠を慕う旧制二高同窓会や市民有志が昭和23年、晩翠会をつくり、当時の岡崎栄松市長が会長となって募金し、約40万円をもって本荒町の土井邸跡に、東北大学名誉教授小倉博の設計で晩翠草堂を建て晩翠に贈呈した。」(「仙台市史 続編第2巻」P189) * 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置 * 1952年(S27)10月19日、詩人土井晩翠〈81歳)晩翠草堂において逝去(「重訂 宮城県郷土史年表」P559) * 1978年(S53)7月1日、一般公開(大町1丁目)/ 仙台市出身の詩人・英文学者の土井晩翠が最晩年に過ごした邸宅を、一般開放(「続・ 宮城県郷土史年表」P83) * 1989年(H1)7月、晩翠草堂周囲改装 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189/「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「続・ 宮城県郷土史年表」P83、P261/「市民の戦後史(仙台市)」P41 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271の写真86/「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(草堂と詩碑) |
魯迅の碑 | 建立 | 1960年(S35)/1975年(S50) |
* 1960年(S35)12月4日、仙台城三の丸跡に建てられる * 1975年(S50)10月19日、魯迅の下宿跡(米ケ袋の佐藤喜東治さん宅)に建立 |
「仙台市史 年表」P121/「続・ 宮城県郷土史年表」P46 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292の写真95 |
文学碑など(仙台) | 原阿佐緒の歌碑 | 1961年(S36) | * 1961年(S36)6月、除幕式 / 歌碑「家ごとにすもも花咲くみちのくの 春べをこもり病みて久しも」 / 野草園に近い、仙台放送の放送所とNHKTVアンテナの中間、道に東側に建つ | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292の写真96 |
民間放送(仙台) | 仙台放送(テレビ) | 1962年(S37) | * 1962年(S37)10月1日、 仙台放送株式会社が、宮城県内の2番目の民放テレビ局として、仙台市茂ヶ崎の大年寺山麓に開局、テレビ放送開始 / コールサイン「JOOX-DV」、略称はOX | 「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P606 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P295の写真97)「市民の戦後史(仙台市)」P144(テレビ送信鉄塔、開局記念市長対談) |
スポーツ大会(戦後復興期) | 東北・北海道対抗柔道大会 | 1952年(S27) | * 1952年(S27)、東北・北海道対抗柔道大会復活大会(仙台) | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P472 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P472の写真139 |
宮城教育大学 | 開校 | 1965年(S40)~ |
東北大学教育学部教員養成課程を分離し、国立の宮城教育大学を設立 * 1965年(S40)4月1日、国立宮城教育大学開校(東北大学富沢分校が仮校舎)、4月30日、東北大学川内記念講堂で入学式 / 小学校教員、中学校教員、盲学校教員各養成課程、および附属理科教育研究施設生物部門を設置 ~ 以下、大学および大学院の各専攻科、各教員養成課程、付属研究センター、研究機構等の設置、名称変更、廃止などは、「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」参照~ * 1966年(S41)10月8日、宮城教育大学、青葉山裏久保田山に建設することが決定 * 1967年(S42)4月、 北七番丁の東北大学教育学部附属小学校、附属中学校及び附属幼稚園を、宮城教育大学に移管 / 同年6月、附属養護学校(小学部及び中学部)設置 * 1968年(S43)4月1日、仮校舎(太白区富沢字金山)から、荒巻字青葉久保田山に新築移転 * 1968年(S43)10月18日、全校舎等竣工落成 * 1969年(S44)、附属養護学校高等部増設 * 1971年(S46)、附属養護学校(仙台市青葉区上杉六丁目)を青葉区荒巻字青葉在地に移転 * 1988年(S63)、大学院教育学研究科(修士課程)設置 / 4月21日、大学院、初の入学式 * 1991年(H3)、情報処理センター設置 * 2000年(H12)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース設置 * 2004年(H16)、国立大学法人法により国立大学法人宮城教育大学発足 * 2005年(H17)、附属学校部設置 * 2007年(H19)、附属養護学校を附属特別支援学校に名称変更 * 2008年(H20)、大学院教育学研究科専門職学位課程高度教職実践専攻(教職大学院)設置 * 2010年(H22)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース廃止 |
「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」/「仙台市史 年表」P124、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P628、P631、P639、P643/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P338~339、P535~536 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P535/「新・目で見る仙台の歴史」P142 |
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