【解説】C-07-02 仙台駅舎と駅前(戦後)

戦前に親しまれた第2代駅舎は仙台空襲(昭和20年7月)で焼失し、駅前からは西方1キロ半離れた西公園や北西方向の帝大病院が見通せる程、仙台市中心部が一面の焼け野原となった。

(駅西側一帯の空襲被害写真は、【分類G-28(仙台空襲の被害)】にある)

敗戦翌月の昭和20年9月には占領軍(米軍)が仙台に進駐【分類H-29の写真】、急ごしらえのバラック駅舎(第3代)の北側にはRTO(米軍仙台地区鉄道輸送司令部)の瀟洒な建物と前庭ができた。(写真は、【分類H-31(米軍占領下の仙台)】に)

戦災で機関車が減少し石炭も欠乏する中、米軍関係の輸送が最優先されたため、列車本数が極端に少なくなり、駅前には切符を買い求める長蛇の列が出来た。【分類H-30の写真】

戦後は、外地からの引揚者や復員兵たちが仙台駅で降り、あるいは通過した。駅ホームや駅前では、有志の学生たちが引揚者を湯茶でもてなし、診察や宿の相談にのるなど、4年間にわたり援護活動を行った。(写真は、【分類H-33(昭和20年代の動き)】に)

昭和20年代の写真では駅前には市電とバス以外には車がほとんどなく、並んでいる人力車の客は多くが米兵だったと言われる。駅前にはいち早くバラック建ての商店やヤミ市が並んだが、中でも「丹六」は菓子の安売りで人気があった。

戦後の混乱がやや一段落した昭和24年7月、木造2階建ての第4代駅舎が完成、広い庇と駅舎正面の大時計が特徴で、東北新幹線工事が始まる昭和47年11月に解体されるまで23年間、市民に親しまれた。

戦後の広大な焼け跡を整備する戦災復興事業では、駅前から西公園まで貫く青葉通りの新設が決まり、駅周辺のヤミ市の強制撤去を伴いながら幅50m(東二番丁角以西は36m)の道路が昭和25年に貫通した。(青葉通りの写真は、【A-05-05】に)駅前の「丸光」は、戦後のバラック店舗から、3階建になり、さらに昭和28年には青葉通り側にも進出しデパートとして営業、駅前への人出を誘った。

やがて、昭和57年には東北新幹線が盛岡まで開通。新装なった新幹線駅の前には、駅舎と周辺のビルとの間をつなぐペデストリアンデッキが新設され、仙台の玄関口は新たな装いの時代を迎えた。

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