【解説】H-31 米軍占領下の仙台

H-31の写真は、敗戦後に仙台に進駐した米軍関連

日本軍用地を接収して出来た川内や多賀城など米軍キャンプ(外観)、ビルなどを接収し仙台市内中心部におかれた米軍関係施設(CID=米軍犯罪捜査部、警察に同居した米憲兵詰所、RTO=進駐軍鉄道輸送司令部)、同施設配置図、焼け跡整理に出動した米軍、市内随所にみられた英語看板、市内で見かけた米兵たち、被占領時代の仙台市街地図(米軍用)など。


敗戦後、米軍を中心とした連合国軍(進駐軍)が日本を占領。宮城県には米軍が昭和20年9月半ばに(仙台には9月16日から)進駐し、仙台市内の複数個所や多賀城などに駐屯、最大時には仙台と周辺部を中心に宮城県内にあわせて1万5千人の米軍将兵がいた。昭和25年朝鮮戦争勃発とともに県内の米軍は大幅に数が減少。

昭和27年4月講和条約発効により日本は独立したが、同時に発効した日米安全保障条約により米軍は進駐軍から駐留軍と名を変え引き続き日本に駐留。同年7月、同条約に基づき引き続き在日米軍に提供する施設及び区域が決定した。宮城県内では、キャンプ仙台(川内)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹)、キャンプ・ローパー(多賀城)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目)、などだが、昭和32年11月には最後まで残っていた川内と苦竹が返還され、宮城県内の米軍基地は姿を消した。

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