【関連資料】H-31 米軍占領下の仙台
仙台での米軍 進駐軍から駐留軍へ
米軍の仙台進駐は昭和20年9月半ば

太平洋戦争敗戦後、仙台市の川内や榴ケ岡(歩兵第四連隊跡)、苦竹(陸軍造兵廠跡)のほか、多賀城(海軍工廠跡)などの旧日本軍関係施設が接収され、進駐軍(米軍)のキャンプとなった。

<毎日新聞社のキャプション>「仙台に司令部をおいた第14軍団は9月15日、塩釜に上陸」

<毎日新聞社のキャプション>「仙台には第11空挺師団が9月16日から進駐開始、(陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命、富国生命、日銀の各支店を宿舎として接収」

第14軍団 から第9軍団へ 仙台には当初(昭和20年9月)に第14軍団司令部が置かれたが、その年の暮に14軍団は廃止された。 / 翌21年4月には第9軍団司令部が札幌から仙台に移された。 /
日米安保条約発効し、進駐軍から駐留軍へ 接収した施設を継続使用 1952年(S27)4月28日、日米安全保障条約発効し、在日米軍は進駐軍から駐留軍となる。 / 【仙台市史10 年表 P328】 1952年(S27)7月26日、日米安全保障条約により、引き続き在日米軍に提供する施設及び区域が決定した。 宮城県内では、キャンプ仙台川内地区、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡)、第172病院(北一番丁)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹)、司令官副司令官官舎(新坂通)、七北田演習場を無期限使用。安田ビル兵員クラブ(国分町)、住宅施設(北二番丁)を一時使用に指定/
「仙台市史 特別編4 市民生活」の「8 占領軍とキャンプ」 P324~329】 昭和32年11月には最後まで残っていた川内と苦竹が返還され、宮城県内の米軍基地は姿を消した。
 
被占領当時の仙台市街地図  (昭和20年代) 仙台に進駐した米軍用の仙台市街地図 / 道路名(町名)はローマ字表記、公共機関は英語表記 / 斜線部分は、仙台空襲(昭和20年7月)の焼失地域 /
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