昭和戦前期(昭和20年敗戦まで)の児童、生徒、学生
子どもの教育は軍国主義一色で、次第に学業より「勤労動員」に時間が割かれるようになり、学生たちは「繰り上げ卒業」させられて戦地に送られていった。
大正14年(1925)以降、全国の中等学校以上の男子学校には配属将校(日本陸軍の現役将校)が配置され生徒たちに軍事教練を行った。また勤労男子青年対象では大正15年から青年訓練所で、昭和10年以降は青年学校で軍事教練が実施された。
昭和12年日中全面戦争開始以降は、全国から青年男子が次々と戦地に出征、太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された。その労働力不足を補うため、昭和13年から始まった児童生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大された。太平洋戦争中の昭和19年4月17日、文部省に学徒動員本部設置(4月から、中等学校以上の男女生徒を軍需工場、鉱山、農村などへ通年で強制動員開始)。昭和19年8月の「学徒勤労令」によりこれを法的に追認。 さらに戦争末期の昭和20年3月18日の「決戦教育措置要綱」により、国民学校初等科以外の生徒・学生の授業が停止され、学徒勤労総動員体制がとられた。
戦場が、日中戦争時の中国大陸から、昭和16年12月太平洋戦争開戦に伴い東南アジア、太平洋諸島や海域に急速に拡大すると共に、戦没兵士が急増、子どもたちも戦勝祈願や慰霊の行事に動員された。幼いころから軍国主義教育を受ける中で、徴兵年齢に達しない少年たちの中から少年航空兵や少年戦車兵などの養成機関に自ら志願するものが少なくなかった。
校内に設けられた戦没兵士の位牌に拝礼する児童たち [16-63]、陸軍記念日にボーイスカウトが行進 [44-66-01]、少年たちが陸軍機で飛行体験 [02-02]、学徒勤労動員で働く生徒 [16-72]、工場に勤労動員され寄宿舎生活する県北の女学生たち [41-02]、男子生徒の軍事教練 [29-07] や行軍演習 [43-03]、木炭を運搬する学生たち [98-089]、東北帝大の学徒出陣壮行会 [98-090]、など