戦時下の子供と大人のくらし
満州事変(昭和6年)以降戦時色が次第に濃くなり、日中戦争(昭和12年7月)開始後は軍需最優先のため国内では食糧や物資が極度に不足。教育もくらしもすべて戦争遂行のため動員されていった。
子どもの教育は軍国主義一色 [29-07]、[16-75] で、次第に学業より勤労動員 [16-72] に時間が割かれるようになり、学生たちは繰り上げ卒業させられて戦地に送られていった。[98-090]
国内(銃後)のくらしが日々窮乏の度を深める中で、代用品使用や戦費調達のための貯蓄が奨励され、金属回収 [16-71] で街や家から金属製品が姿を消した。出征兵士見送り、戦勝祈願 [16-06]、防空演習 [16-69] や訓練 [16-08] には、市民が集団(職場や地域ぐるみ)で動員された。[16-10]
町内(昭和15年11月からは「公会」とその下部の「隣組」)は、食糧・衣類・日用品の配給、情報周知と意思統一、防空演習、出征者留守宅や戦没者遺族(誉の家)の援護など、銃後の戦時動員体制の単位だった。写真の「慰安演芸大会」[06-11] は、土樋第二公会内の出征家族や戦没者遺族のための慰安の催。