「無言の凱旋」とは、戦没将兵の遺骨帰還の意味。(ただし、骨箱の中には、「小石が1個だけ」など、遺骨が入っていない場合が少なくなかった)
写真の構成は、
『重訂 宮城県郷土史年表』P460 →「昭和12年12月、北支戦線に武勲を樹てし故大泉中佐以下二百二十一柱の合同慰霊祭を、県市主催のもとに市公会堂にて挙行す。」
戦没兵帰還 少ない記録
宮城県史7の「仙台部隊関係年表」には、部隊の編制や出征(出発)、前線での移動、部隊の帰還の記録はあるが、「戦没兵士の帰還」や「慰霊祭」の記録はほとんど載っていない。(実際は、もっと多い筈)
「仙台部隊関係年表」にある、満州事変(昭和6年9月~)以降の「英霊帰還・慰霊祭」の記録は1回だけ
*昭和6年10月12日、満州事変に散華した勇士の遺骨仙台に到着、当日追廻練兵場に祭壇を設け慰霊祭を挙行。 → 関連資料G-25-03 にも記述有
日中戦争、太平洋戦争期の英霊(戦没将兵の遺骨)帰還や慰霊祭の記録は載せていない。 (18年7月のガダルカナル島戦の英霊奉迎式、慰霊祭の記録も載っていない)
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34(出典 昭和14年の宮城県知事事務引継書:宮城県公文書館蔵)
→「開戦から2年足らずの昭和14年4月時点、日中戦争の宮城県関係の戦死者は2552人、負傷して内地帰還された兵3131人」
「その他の資料」に載る慰霊祭の記録 → 関連資料 G-25-03(無言の凱旋・慰霊祭の記録)を見よ。
関連 部隊帰還の記録
「仙台部隊関係年表」にある、満州事変以降の「部隊帰還」の記録は、以下の2回
(太平洋戦争中は、第二師団、第十三師団とも内地帰還の記載はない)