【解説】E-18  七夕(戦後) 飾り物

敗戦翌年の昭和21年夏、仙台空襲で壊滅した街に1本の竹飾り [53-12] が掲げられた。それは焼けトタンを伸ばしてバラック [53-05] を建て、東一番丁でいち早く店を再開した森権五郎さんだった。当時東一番丁の焼け跡に戻って商売を始めていたのはまだわずか52軒だったが、その翌日にはすべての店が一斉に掲げ、全市に先駆けた七夕飾りは仙台復興の狼煙となった。

翌22年8月5日、昭和天皇の東北巡幸にあわせて、巡幸車が通る仙台駅前 [27-01] や商店街 [53-08] は、七夕飾りを出して天皇を歓迎した。 占領下にあった戦後、仙台と周辺部には最大で1万5千人の米軍が駐屯していたが、七夕写真にも、人出の中に米軍兵士 [03-01] や家族の姿がまじるようになる。見物客の服装も時代を映している。 20年代半ばの朝鮮戦争以降は、戦後の粗末な服装は姿を消し、若い女性たちの服装 [13-07] や髪型は次第にファッショナブルになっていった。

戦後の七夕飾りは、戦前の素朴なものよりも、商店が競って造形に凝り、バラエティーに富んだ飾り [201-60]、[31-17]、[09-02] や仕掛物が街を彩るようになった。NHK仙台局がテレビ放送を開始した昭和31年、七夕が始めてテレビで全国に生中継 [18-33] され、それが毎年恒例となり、仙台七夕はますます全国から注目されるようになっていった。

昭和50年前後の七夕写真には、宇宙戦艦ヤマト [18-47] などテレビ・アニメの主人公が登場する。また、クレーンで吊り下げた大掛かりな物(龍 [18-49]、遣欧使節が航海したサン・ファン・バウティスタ号 [18-46]、政宗騎馬像 [18-52] など)も目立つ。それらのスポンサーはダイエーや長崎屋など当時全盛を誇ったスーパーストアで、ここにも時代の波が写し込まれているといえる。

【解説】を印刷