H-2 戦後体験 | S.S. さん
<バラックの駅舎 立派なRTO>
父が戦災直後(昭和20年)11月に、大船渡線折壁駅長から、仙台駅出札主任に転勤したので、私も東七番丁の鉄道官舎に入り、よく父のところ(職場)に弁当を持って届けに行った。 (写真16-16の)左側が出札口です。
砂利を敷いたままのバラック建てでしたが、(隣の)RTO(進駐軍鉄道輸送指令所 写真16-22)は立派でした。
<空腹の駅職員に 母がオニギリを>
よく米兵とパンパンがやって来て切符を売れと迫ったそうで、父は大変苦労しました。不正販売については職員に毎日朝礼で話しそうです。(編者注:注意したという意味か?) 空腹で出勤した職員には、オニギリを母が作って準備して食べさせたのです。 父は大河原町の農家出身だったので多少米が手に入りました。 宿舎に来て職員さんは腹ごしらえをしていました。お茶を飲む姿は今も忘れられません。
参考 |
【写真説明】
16-16 は、昭和21年頃の仙台駅舎。(昭和20年仙台空襲で焼失したあとの急造バラックで、戦前から通算して第3代駅舎)
16-22 は、RTO(進駐軍鉄道輸送指令所)で、昭和25~26年頃の撮影。 写真右端の仙台駅舎は、この頃には2階建ての第4代駅舎に代わっている。
編者注: 戦争が終わっても食糧不足は深刻だった。主食の米も配給制だったが、遅配欠配が珍しくなく、都市の住人は、農家にヤミで買い出しに出かけたが、なかなか手に入らなかった。 |
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情報提供者 |
S.S. |
性別 |
男 |
生年 |
1926年(T15) |
住所 |
青葉区 |
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ID |
278 |
分類 |
H-2 戦後体験 |
サブ番号 |
11 |