【解説】A-04-04 東二番丁通り

東二番丁通りは、定禅寺通~五橋通まで全線一帯が仙台空襲(昭和20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった。

その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関 [22-24] 、協和銀行 [22-25] 、逓信病院 [22-23] 、東北学院中高部 [36-03] 、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、これらの建物 [98-109] が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(昭和33)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した。(「仙台市史 続編1」P345、P349)

両側には歩道(幅9m)と側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は中央の15m幅に片側2車線ずつと、側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された。戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた。 

1970年代半ば(?) には、五橋通りからさらに南へ延伸されて(当時の)仙台市立病院前交差点までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された。

また、東二番丁通りの北端は、勾当台通りに突き当たり [201-03]、公園の西側の勾当台通りとはクランク型 [40-06] につながっていたが、1986年(S61)に勾当台公園の西南端を削って、2本の道路をゆるいカーブで繋げた。

<参照> 当サイト内「仙台よみとき用語年表」の項目「東二番丁通り(拡幅)」
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