H-2 戦後体験 | I.T. さん
<大学病院に入院中の思い出(食糧難だった昭和21年)>
当時小学校5年生だった私は、昭和21年6月~8月31日迄、盲腸が手遅れになり、その後腸閉塞をおこし大手術となり、桂外科の302号室に入院しておりました。
その頃、入院患者の食事は付き添いの家族が各々用意する為、ベランダにおいた七輪に炭火を起こして炊くおかゆと粗末なおかずのみでした。 隣のベッドで母親に付き添っていた10代の娘さんは母親にほんの少しばかりのおかゆを炊き、自分はメリケン粉をこねて、その中に味噌をつめ(あんの代わり)蒸して、ベッドの下で食べておりました。
<お医者さんの失敗談が話題に>
先生方も日曜日にはリュックを背負い、じゃがいもの買い出しに行かれるという状態で、月曜日の回診の時には必ずその苦労話をされたものでした。 ある夜、やっと手に入った1升の日本酒(焼酎?)を囲み、屋上で宴会(といえますかどうか)となり楽しいひと時を過ごされたまでは良かったのですが、酔っぱらってしまった1人の若い先生が屋上から放尿してしまったということで、翌日その話を聞き病院中みんなで大笑いとなりましたが、手術したばかりの私はおかしいやら、傷口は痛いやらで、我慢するのに大変な目にあったのを思い出します。
<兄がカバンに忍ばせた牛乳>
それでも私は恵まれた方で、仙台の会社に勤めておりました兄が、毎日、入院している妹のためにと小牛田の牛乳屋さんから牛乳を二合ずつ分けてもらい、カバンの中に忍ばせて届けてくれて飲むことができたので、少しずつ体力がついていったようです。 主治医は菅原先生(菅原文太さんの叔父様)、兄は元小牛田町長の故栗村和夫です。
参考 |
写真 16-37 は、昭和20年代の東北大学病院。
「メリケン粉」(広辞苑 より)
→「小麦粉の俗称。国産の小麦粉から作ったうどん粉に対して、アメリカから輸入した小麦から作ったものを言った。」 |
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情報提供者 |
I.T. |
性別 |
女 |
生年 |
1936年(S11) |
住所 |
青葉区 |
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ID |
283 |
分類 |
H-2 戦後体験 |
サブ番号 |
16 |