思い出・時代の記憶
H-2 戦後体験 | T.Y. さん
時代 昭和20年8月~9月 
関連する写真番号 90-06, 90-08, 90-11, 90-12, 90-14 
<敗戦直後、仙台上空に米軍機飛来>
  昭和20年8月15日(玉音放送の日)かその翌日だった。 昼間仙台上空を米軍のグラマン機が沢山飛行した。 プロペラ機だった。 空母から飛んできたのだろうか。 私は国鉄仙台駅の職員だったが、その日は勤務明け(あけ番)で西口広場にいたら、何十機も飛んできた。示威行為だったのだろうか。 戦争が終わったばかりだったが、米機から機銃掃射される心配がなくなり逃げなくて良いので、皆が外に出て眺めていた。 

<列車で進駐した米軍 その日改札係りでした>
  昭和20年、私は仙台駅の改札係りだった。(1年半やっていた) 9月に米軍が仙台へ進駐してきた初日に改札をしていた。 全武装で列車に乗ってきた兵隊たちが仙台で仙石線に乗り換えて苦竹へ向かったと思う。 その時、米兵から「ユー・スピーク・イングリッシュ」などと話しかけられた。米軍には日本人二世の通訳がいた。
列車で移動する進駐軍兵士たち
90-06 | 列車で移動する進駐軍兵士たち
客車から地上へ飛び降りる米兵たち(2)
90-08 | 客車から地上へ飛び降りる米兵たち(2)
客車から地上へ降りる米兵たち(2)
90-11 | 客車から地上へ降りる米兵たち(2)
客車から地上へ降りる米兵たち(3)
90-12 | 客車から地上へ降りる米兵たち(3)
隣の列車に乗りこむ米兵たち(1)
90-14 | 隣の列車に乗りこむ米兵たち(1)
参考 【写真説明】
[90-06、90-08、90-11、90-12、90-14] は、いずれも1945年9月23日に仙石線で仙台に到着した占領軍(米軍)兵士たち(第11空挺師団)で、列車で仙台駅に到着後、いったん地上に降りて他の線(仙石線)の列車に乗りこむ場面。

編者注: 宮城県内の米軍は進駐時(昭和20年9月)に約1万人、最大時は1万5千人、昭和25年朝鮮戦争時には激減した。仙台および県内に進駐・駐留したのは昭和32年11月まで。

 
 
情報提供者 T.Y. 
 性別
 生年 1926年(T15)
 住所 青葉区 
 
ID 268 
分類 H-2 戦後体験 
サブ番号
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