G-6 戦時体験(銃後のくらし) | K.M. さん
<昭和18年 14歳の私 予科練めざし 飛行学校に体験入隊>
この写真 [02-01,02-02] は昭和18年の7月、私が14歳当時の記念です。
義務教育最終学年の国民学校高等科2年生でしたが、卒業と同時に予科練の候補生になることが決まっていました。 そして7月20~22日、二泊三日の日程で仙台の霞の目飛行学校に体験入隊させられました。 一緒に参加したのは東北6県の高等科2年生で、各県から生徒25名、付き添者2名で総勢163名でした。 毛布二枚で小体育館に寝かされ、午前6時には起床ラッパでたたき起こされました。
二日目(7月21日)の午前中、世界一周をしたという双発輸送機「日本号」に36人ずつ乗って、20分ぐらい仙台上空を飛行しました。 滑走路はなく、グランドは雑草に覆われ、凸凹の粗末な飛行場という感じで、遠くには村落が見えるがとても殺風景だった記憶があります。人間の乗用ではないので、木製の腰掛け4脚、鉄板丸出しの機内故に爆音もすごく、話が聞き取れない程でした。 高度500mとききましたが、上空からは赤いポストがクレヨンのように見えたことが、今では夢のような出来事として、残像が脳裏にあります。
<昭和19年 兄達は戦地に 父の思い>
当時は軍事訓練もありました。週2回、水、日曜日の午後は学科や模擬銃の操作訓練をしました。 合間には家業の農家を手伝いました。 昭和19年に国民学校を卒業したあとは、農業をしながら予科練候補生として自宅待機となりました。 兄3人のうち2名が応召で北支や八丈島におり、もう一人は鉄道勤務でした。 父親は、「国家のために十分奉仕している」といって、志願しないよう私を止めていました。
<昭和19年 大洪水で田畑は壊滅でも 強制された米供出>
昭和19年には最上川の大洪水で堤防が決壊し、羽越線が一時不通になり、田畑作物も壊滅状態でした。 洪水は食糧難に拍車をかけ、ほとんど収穫できないのに供出米は強制的にとられました。 肥料が配給分では足りず、不足分はヤミで父が米と物々交換で手に入れました。 私も父親と一緒に酒田まで肥料をとりにゆき、見つからないように夜中にリヤカーを押しながら裏道を歩きました。
<昭和20年 急に現れた米軍機 神風はいつ吹くのか>
最上川復旧工事で人夫として作業中に米軍機4機位が急に現れ、みんな、河川敷のカヤの茂みに逃げ込みました。 胴体には(米軍の)星のマークがはっきり見えました。 地上から高射砲を撃っていましたが、米軍機には当たらず、空中で破裂する煙が花火のように見えました。 米軍機からの爆弾で両羽橋の中央付近に2mほどの穴が空きました。 こうした中、戦争はどうなるのか、いつ神風が吹くのだろうかと真剣に考えました。 終戦を知った時、志願できなかった悔しさの反面、ホッとしました。 予科練入隊の命令はついに来ませんでした。
02-01 | 少年たちが軍用機で飛行体験(2)
02-02 | 少年たちが軍用機で飛行体験(1)
参考 |
K.M.さんは、日下部巳之吉さん。写真に添えられた日下部さんの書簡(1995年記) |
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情報提供者 |
K.M. |
性別 |
男 |
生年 |
1929年(S4) |
住所 |
山形県東田川郡庄内町 |
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ID |
231 |
分類 |
G-6 戦時体験(銃後のくらし) |
サブ番号 |
22 |