【解説】H-32 進駐軍と市民

時代背景

仙台空襲(昭和20年7月)で中心市街地の大半500ヘクタールが焼きつくされた仙台 [63-04]、[98-147] と周辺部に、敗戦翌月の昭和20年9月16日から、1万人をこえる占領軍(米軍)が進駐 [90-11]した。

住む家も仕事も失い深刻な食糧難で苦しむ仙台市民は、絶対的な権力をもつ進駐軍と折り合いをつけながら生き延びるのに精一杯の日々だった

米軍は川内 [63-07] や榴ケ岡、苦竹、多賀城 [63-06] などの旧日本軍基地や施設を米軍キャンプとした他、市内で焼け残った主要なコンクリート・ビルなどを接収し米軍の諸機能をおいた。

分類H-32の写真には、それらに働く日本人従業員や、米兵相手の商売、米兵たちと市民の交流などの写真が残されている。

H-32の写真内容

<参照> 当サイト内「仙台よみとき用語年表」の項目「進駐軍(米軍)」、項目「駐留軍(米軍)」
<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」の分類項目「H-1 進駐軍」、「H-2 戦後体験」
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