【解説】H-30 敗戦翌月の仙台駅で
H-30の写真内容
昭和20年9月24日に仙台駅前と仙台駅構内で米軍が撮影した、日本人の様子。
*写真はすべて、米軍撮影の動画Film=パブリック・ドメイン映像からの抜き焼き
動画Filmは、日本の敗戦(昭和20年8月15日)からまだひと月余りの時点で、9月半ばに仙台に進駐した米軍が撮影。
写真内容と時代背景
- 仙台駅舎も周辺も、仙台空襲(昭和20年7月10日)で焼失 [35-16] したが、この時点では急ごしらえの平屋の駅舎 [91-02] が出来ている。
- 戦災で機関車が減った(国鉄全体で機関車の14%、891台が損傷した)うえ、蒸気機関車を動かす燃料の石炭が欠乏、しかも9月後半には米軍部隊が国内各地へ進駐 [90-06] のために特別列車で集中輸送された影響もあり、日本人が乗れる列車本数は大幅に減っていた。
- 駅前には、切符を求めて並ぶ人が長い列 [91-03] をつくり、ホームも列車も大混雑 [91-14] し、客車の窓 [91-16] からも乗り降りするのが日常の姿だった。
- 鉄道では男性職員たちが大量に出征した人出不足を補うため、代わりに若い女性たち [91-15] が動員され働き、それは戦後も続いていた。
- 市内を走るバスは、戦中戦後のガソリン不足のため木炭バス [91-23](木炭ガスを燃料に走る)だった。
*映像内容の解読は、氏家一郎氏(仙台郷土研究会)に協力・監修いただいた。(1995年)