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列車の乗り口につめかける人達
列車の乗り口につめかける人達

分類項目 敗戦翌月の仙台駅で 
タイトル 列車の乗り口につめかける人達 
写真番号 91-14 
場所 仙台駅
映像内容 右手前(白襟)は女性の国鉄職員、胸にネームプレート(名前と血液型がかいてあった) / 大平洋戦争後半期、鉄道では男性職員たちが大量に出征した人出不足を補うため、代わりに若い女性たちが動員され働き、それは戦後もしばらく続いていた
撮影年代 1945年(S20)9月24日 
撮影年代判定根拠 写真91-01のクレジットより
関連情報/参考文献 氏家一郎氏(仙台郷土研究会)談「名札の血液型は、戦争中けがをした時、すぐ輸血が出来るように記入、それが常識だった」

【「ものがたり東北本線史」P521】 「昭和19年の1月には仙鉄局管内の現場に女性が急激に進出していた。出札、改札、小荷物、車掌、列車清掃手、踏切警手などに女性が配置され、仙鉄局管内全職員の8%を女性が占めるに至った。18年の1月に比して5%も(編者注:5ポイントか?)増えていた。19年3月には技工、貨物掛、荷扱手などの重労働の職種にも女性が入っている。」

<時代背景> → 「写真データベース」の「【解説】H-30 敗戦翌月の仙台駅で」
<戦時中の勤労動員> →当サイト内「仙台よみとき用語年表」で、キーワード“勤労動員”で検索
備考 米軍撮影動画FILM(パブリックドメイン)より抜き焼き

<泉区・名幡ふき子さん(大正13年生まれ)の思い出 「歩いて買い出し」> 
「昭和20年代前半、私は柳町に住み、西多賀や長町の方まで歩いてゆき、食糧の買い出しをした。/農家は木綿もの(蒲団など)は重宝がられたが、絹ものでは芋とツル位しか貰えなかった。大根は葉っぱも食べ、糠でパンをこしらえたりした。秋保電鉄はあったが、柳町から西多賀までは往きも帰りも歩いた。 」 
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号 14 
画像ファイル名 sendai12029 
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