【解説】A-05-07  二十人町

「二十人町」は東北本線の東側の商店街。

(仙台駅東口がなかった昭和27年夏までは)仙台駅西口広場からの経路は、駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋 エックスバシ)で越えた先で、仙石線の北側にある商店街。

藩政時代、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる。

戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客や、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第四連隊の兵隊さん、連隊に出入りの人々などを相手にした商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、この他に近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた。

昭和12年の日中全面戦争以降、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足で、やむなく店を閉じたり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた。 昭和20年7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失。

戦後は第四連隊の後に米占領軍が駐留(キャンプ榴岡)。 市中心市街地が戦災で壊滅した中で、二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという。

しかし、キャンプ榴岡は昭和31年6月に返還され、さらに仙石線東七番丁駅の廃止(昭 和27年)、片倉工場閉鎖(昭和31年)などで商店街はそれまでの存立基盤を失う。

逆風に遭いながらも昭和20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、昭和32~35年には、青年会が七夕仕掛物で全市商店街コンクール2等賞を獲得するなど入賞を繰り返し、明るい話題となった。

商店数は昭和10年頃が54店、昭和30年頃が70店。

そのほか、商店街の真ん中に明治28年から二十人町教会があったが、昭和63年に原町5丁目に移転した。

「写真分類A-05-07」の他に、二十人町が写る戦前の写真が

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