分類項目 | 進駐軍と市民 |
タイトル | 表彰された米軍キャンプ日本人従業員 |
写真番号 | 56-02 |
場所 | 仙台市苦竹 |
映像内容 | 米軍苦竹キャンプで / 機械の開発で米軍の上官から表彰された日本人従業員、鈴木正衛さん(左)、鈴木さんは苦竹キャンプで暖房用ボイラーの水質検査を担当 / 開発したのは、キャンプで使った水(堀貫井戸)の検査のためサンプルの水を一定の温度に保つ機械 / 宮城県内の米軍キャンプが徐々に返還されたが、、苦竹と川内は最後になり、1957年(昭和32)11月まで続いた |
撮影年代 | 1956年(S31) |
撮影年代判定根拠 | <写真提供者からの情報> |
関連情報/参考文献 | 米軍苦竹キャンプの米軍名称はキャンプ・シメルフィニヒ 鈴木正衛氏談(大正7年生まれ)1996年談 「米軍苦竹キャンプ内の教会の内部には、東京の空撮の大きな写真(空襲前)が貼ってあった。」 「私は、昭和21年5月、中国から仙台に復員、21年8月頃から米軍に勤務した。苦竹キャンプの暖房用ボイラーの水質検査担当だったが、夏はボイラーを使わないので、次の冬に備えて解体、整備をし、日本人従業員の人事や庶務も担当した。米軍キャンプの日本人従業員は、米軍の直接雇用と県の労務管理事務所雇用の2種あり、大多数は後者だった。 県庁内に特別調達庁があり、苦竹キャンプにその出張所があった。私はそこで、24年~26年に2年ほど働いたが、ボイラーマンのサラリーの方がよかったので、籍はボイラーマンのままにして働いた。キャンプには日本人の大工や配管工などもいて、その人たちの仕事でかかった材料費、人件費などを(日本側が負担して?)賠償を払ったことになった。 私は、工事の後にこれをまとめ書類にして米軍へ提出し、将校のサインをもらって8部作成、GHQと県庁などへまわした。仙台地区の全キャンプの工事関係の事務(調達など)は苦竹の出張所で担当。日本人従業員のサラリーは県職員より30%良く、昭和32年当時、月給1万7000~1万8000円だった。出張所はその後県庁に引き揚げた。」 |
備考 | <参照> 当サイト内「仙台よみとき用語年表」の項目「進駐軍(米軍)」、項目「駐留軍(米軍)」 |
カラー/モノクロ | モノクロ |
分類内の通し番号 | 30 |
画像ファイル名 | sendai12100 |