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出発する部隊と 見送りの市民たち (昭和12年の可能性大)
出発する部隊と 見送りの市民たち
(昭和12年の可能性大)

分類項目 部隊の出征 
タイトル 出発する部隊と 見送りの市民たち
(昭和12年の可能性大) 
写真番号 04-01 
場所 仙台駅前広場
映像内容 仙台にあった陸軍部隊が出発(部隊と見送りの人々) / 場所は仙台駅前広場 / 時期は、昭和11年6月以降~昭和14年頃までの間 →「撮影年代判定根拠欄」参照

/ 昭和11~14年の仙台からの部隊出征の記録は以下の2回 (イ)昭和12年4月の「第二師団、満州駐箚(ちゅうさつ)のため出発」、または(ロ)同年9月の「第十三師団(歩兵第104連隊)の日中戦争動員下令で出征の、いずれかと思われる →「関連情報欄の<1>」参照
/ 兵士の軍服が昭和13年6月以前の縦襟と襟章のように見える →「関連情報欄の<2>」参照

/ *日中戦争期に戦地への出征の場合、出征幟が林立していた(=要検証)と仮定すれば、この写真には見えないので、戦地への「出征」でなく、(イ)の昭和12年4月満州駐箚のための「出発」時の可能性がある

/ 宮沢正夫さんの思い出「当時、仙台駅で出征兵士を送る時に歌った歌詞の一部 「(一) 森の若葉も青々と 今日は輝くますらをの 晴れの門出の勇ましさ」
撮影年代 1936年(S11)6月~1939年(S14)の間 
撮影年代判定根拠 ① 駅前広場に面した佐藤物産店(背後の黒っぽい建物群の左端の店)の看板配置と店前の鉄柱が、分類C-07-01の写真 53-14 (撮影:昭和12~14年の間)と同じ。 分類C-07-01の写真 44-93 (昭和11年5月)には、まだ鉄柱がないので、この写真は、昭和11年6月以降撮影

② バスがまだ木炭バスでない(ガソリン不足のため仙台でも昭和14年以降逐次、木炭バスに変わった → 木炭バスは、 98-10591-2191-24

③ 大平洋戦争開戦直後(昭和16年12月11日から逐次)第二師団が「出征」しているが、日中戦争期と違ってこの時期に駅前で大々的な見送りは考え難い
関連情報/参考文献 <1> 【「仙台市史」7の「仙台部隊関連年表」】では、昭和11年6月~昭和14年の間に仙台からの部隊出征記録は2回 
 (イ) 昭和12年4月9日~18日に、第二師団が満州駐箚のため仙台を出発(その後、昭和12年夏の日中開戦後は満州を出て中国各地を転戦し、昭和15年11月にいったん内地帰還、その後太平洋戦争開戦により昭和16年12月11日から逐次、近畿、中部、関東方面に向かうため各屯営から出発、以後東南アジア各地を転戦し、敗戦まで帰還せず)
 (ロ) 昭和12年9月24日、十三師団(歩兵104連隊)が仙台から出発(上海から徐州、武漢、漢口北部などを転戦し昭和20年敗戦まで帰還せず)「仙台市史 年表」P108では、第十三師団は9月9日仙台において編制された
<2> 陸軍の軍服が昭和13年6月に縦襟から折襟に改められた。 ただし、その時を境に一斉に変わったのではないようだ。新制式(折襟)と旧制式(立襟)の併用は認められていた。

<参照> 
・ 第二師団の出兵記録 → <参照> 当サイト内「仙台よみとき用語年表」の項目「第二師団(出兵記録)」
備考 <青葉区・宮沢正夫さん(昭和4年生まれ)の思い出 「出征した兄」> 「昭和12年に日中戦争がはじまり、同時に仙台駅からは毎日のように出征兵士を見送る光景が見られた、私の兄も召集され、写真のように、駅前に整列してから前線へ向かった。 / 当時、仙台駅で出征兵士を送る時に歌った歌詞は 「(一) 森の若葉も青々と 今日は輝くますらをの 晴れの門出の勇ましさ」

<大平洋戦争期に出征した場合は、日中戦争期にような盛大な見送りはできなかった>
「ガダルカナルに哭く」の著者、阿部敏子さんの記憶 ~「ひそかに見送った 兄の出征~ 「ガダルカナル島で戦死した兄は、太平洋戦争が始まった昭和16年冬に出征しました。 そのころは、作戦上からも出発の日を公にせず、このような(日中戦争の頃のような)盛大な見送りはできませんでした。 夜、仙台駅から発つ兄を、私はホームの見える暗いかげからひとり見つめていました。
昭和16年の出征の間際には、榴が岡の歩兵第4連隊で、広いところにゴザが敷かれていて、そこで大勢の家族が兵士と面会した。それまでは兄は日曜ごとに自宅に来ていたのに、秋深くなってからは来なくなって、訓練を続けているようだった。」

<青葉区・西條美智子さん記憶> 「昭和18年秋、父が戦地に出発するとき、このように兵隊さんが並んでいたのを見ました。」

<泉区・伊東ひで子さん(大正3年生まれ)「帰還できなかった夫」>「昭和19年8月、主人もあの写真のように仙台駅に沢山の戦友と並列いたし、生まれたばかりの息子の非常食用の乾パンを残して出征いたし、その年の8月18日には、バシー海峡で魚雷にやられて戦死いたしました。」 
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号
画像ファイル名 sendai10001 
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