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愛宕山より仙台市内展望(2-3)
愛宕山より仙台市内展望(2-3)

分類項目 市内展望(愛宕山から) 
タイトル 愛宕山より仙台市内展望(2-3) 
写真番号 01-01-03 
場所 仙台市
映像内容 <続き写真4枚( 01-01-0101-01-02 、01-01-03、 01-01-04 )の左から3枚目>
/ 川は広瀬川、右端の橋は愛宕橋 / 川の手前は(画面中央下、市営愛宕プールと住宅群 / 住宅群の対岸に荒町小学校 その左へ、専売公社工場、東北学院専門部(四角い3階建)
/ 川の手前の住宅群の一部が仙台空襲(昭和20年7月)で焼失した(備考欄の体験談参照) / 空襲直後に撮影した写真 35-27 では川手前右側の住宅群がまばらで、一部の住宅が焼失したことが分かる / だだし、仙台空襲焼失地域図 98-147 では、そのあたり(プール付近の住宅群)は焼失地域の彩色が欠落している/ 
撮影年代 1939年(S14)頃 
撮影年代判定根拠 写真 08-10-01 ~04(仙台の旧制○○中学校昭和14年卒業アルバム掲載写真)と全く同じ / 昭和14年当時の「仙台全景と市街図」の写真と同じ
関連情報/参考文献 愛宕橋は、1935年(昭和10)にコンクリート橋になった。

<愛宕橋> →当サイト内「仙台よみとき用語年表」で、キーワード“愛宕橋”で検索
備考 <仙台市 I.M.さんの記憶>
 [広瀬川沿いにあった我が家]  この写真は、愛宕山からの撮影。 右端の橋は愛宕橋。 広瀬川の手前(写真真ん中下)はプール。 川べり手前の住宅群の右から2番目がわが家で、我が家の右隣は玉沢菓子屋の奥さんの妹さんの家でした。 まだ戦災にあう前の様子です。
 [不発弾を手で川へ投げ捨てた] 昭和20年7月の仙台空襲では自宅の前、東側の住宅群はすっかり焼け落ち、わが家にも5発の焼夷弾が落ちましたが、燃え上がる前に消すことが出来ました。 不発弾は手で川へ投げました。 我が家(黒い屋根)の向かって左隣まで空襲で焼けました。 家の隣の空地で防空壕に入った近所の家族は亡くなりました。 愛宕山の氷蔵(トンネル)に私が年寄りと子供を避難させました。 そこには、畳まで敷いて入っている人がいました。
 [主人が他界し、姑たちを連れて東京へ] 戦後2年足らずの昭和22年5月に主人が他界。その年の12月末に、東京在住の義兄が来仙してくれ、私たちは家を整理、姑たちをつれて東京へ移りました。  
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号
画像ファイル名 sendai024 
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