思い出・時代の記憶
H-2 戦後体験 | T.T. さん
時代 昭和30年頃 
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<まだあった米軍キャンプ ~昭和30年頃の原町・苦竹~ >
  戦後十年。 どうやら戦争の痛手から抜け出したような気分が漂っていたころでした。 街のなかには未だ戦災の傷痕が残っていました。それでも市民は元気よく毎日を生活に励んでいました。 原町地区もだんだん賑やかになってきました。 しかし、苦竹では米軍相手のキャバレーが多く横文字の看板、オンリーの姿、基地の街の様相を晒していました。 まだ、貨物線もなく、国道バイパスもなく、卸売団地もなく、仙塩街道は舗装はされたが田圃の中には人家もなく、福田駅まで街道だけが続いていました。 鶴ケ谷団地が開発され始めたころでした。榴岡公園ではまだ旧歩兵第四連隊の兵舎が建ち並んでいました。釈迦堂も榴岡に建っていました。 東北本線は小田原田圃のなかを通過していました。沿線には、中江、案内、中原と、戦前の仙台造兵廠の工員住宅がそのまま残っていて、そこにはまだ当時の人たちが住んでいました。  勿論、市内電車は原町駅前が終点で走っていました。 原町本通りには「森永キャラメル工場」があって、前を通ると甘いキャラメルの匂いがしたものです。原町観音様の縁日には通りが賑わったものでした。原町映画館で「喜びも悲しみも幾年月」を観て感激したものでした。 昭和32年、米軍が撤収して自衛隊が駐屯し、苦竹の街も落ち着きを取り戻したようです。 平成の時代となり仙石線も地下鉄になろうとしています。これからどんなに変化していくのでしょうか。 (1995年5月 T.T.氏の手記)
参考 編者注: 苦竹にあった旧日本軍の造兵廠は、戦後は進駐軍に接収され昭和32年11月まで米軍の苦竹キャンプ(キャンプ・シメルフィニヒ)が置かれていた。T.T.さんは、キャンプ返還後に跡地に入った陸上自衛隊の施設維持班長を務めた。 
 
情報提供者 T.T. 
 性別
 生年 不明
 住所 宮城野区 
 
ID 310 
分類 H-2 戦後体験 
サブ番号 43 
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