G-4 軍隊体験 | O.K. さん
<歩兵第四連隊兵士として、満州事変で出動>
* 昭和6年5月頃、第二師団満州駐箚により、満州へ。 (当時、私は第二師団の歩兵第四連隊第一大隊第三中隊に所属)
* 昭和6年9月18日、満州事変勃発時、第四連隊は長春(昭和7年建国の満州国時代は新京といった)にいた。 第四連隊は直ちに国民革命軍東北辺防軍(張学良麾下)の2か所の兵営を攻撃 (第一大隊は、寛城子(かんじょうし)の兵営を、 第二大隊は南嶺(なんれい)の兵営を攻撃。)
* 当時、第三大隊は仙台に残っていた。
* 非常呼集がかかったのは夜中の12時頃ではないでしょうか。 第一大隊が攻撃した寛城子の兵営には建物が3つあり、左は兵舎、中は馬屋、右は警官用だった。 兵舎は第一中隊が攻撃、私が所属する第三中隊は右側の警官のいた建物を攻撃。 第一中隊は一番犠牲者が多く見習士官も戦死、第三中隊は2名が戦死。 最後は全部占領して捕虜にして引き揚げた。 全部で40~50人の犠牲者が出た。
* そして、南嶺の攻撃に向かった第二大隊が危ないとの情報があり、第一大隊もすぐに南嶺に向かった。
* 翌日は吉林へ向かう。 吉林には私たちより先に第二師団の工兵隊が先行していた。 吉林に二晩くらいいて長春に戻った。
<仲間の兵隊の遺骨を抱いて仙台へ>
満州各地の戦闘で、命を落とした仲間が少なくありませんでした。 6年11月末、連隊の兵士20人が、将校1人に引率され戦死した兵の遺骨をもって仙台に一時帰還しました。 私もその一員でしたが、仙台駅では大勢の人たちに迎えられました。
<陸軍飛行学校の教官となる>
昭和8年1月に第二師団の「凱旋」(仙台帰還)で帰国し、その年に所沢の陸軍飛行学校に入学しました。 昭和12年はから熊谷飛行学校の教官をつとめ、昭和20年3月に仙台・霞の目の陸軍飛行学校に転任。そこには、かつて逓信省航空課の乗員養成所がありましたが、太平洋戦争中に軍に統合され、陸軍の飛行学校となっていました。
そこでは、特別操縦見習士官(大学生を繰り上げ卒業させられた男性たち)を対象にパイロット養成を担当しました。(昭和18年暮から期間半年間として、4期まで養成した) そして、そこで昭和20年8月の終戦を迎えました。 ( O.K.さんは、太白区の奥田謙三さん / ききとり 1996年2月)
参考 |
編者注: 「満州駐箚師団」
日露戦争勝利により日本が 旧・満州(中国東北地方)に権益を得て以来、権益確保のため陸軍部隊を満州に駐屯させた。 1905年(明治38年)から、内地の陸軍師団を駐箚師団として2年交代で駐屯させたほか、1907年(明治40年)からは独立守備隊も置き、双方は関東軍の指揮下におかれた。
仙台の第二師団は、1931年4月から二度目の満州駐箚中に、日本軍(関東軍)の謀略で9月に満州事変が勃発し、満州各地を転戦後、1933年(昭和8年)1月に仙台に“凱旋”した。 |
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情報提供者 |
O.K. |
性別 |
男 |
生年 |
1909年(M42) |
住所 |
太白区 |
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ID |
198 |
分類 |
G-4 軍隊体験 |
サブ番号 |
1 |