項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
健康都市宣言 |
1962年(S37) |
→ 項目「健康都市宣言」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害市民憲章 |
1970年(S45) |
→ 項目「公害市民憲章」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害防止条例 |
1971年(S46) |
→ 項目「公害防止条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
杜の都の環境をつくる条例 |
1973年(S48) |
→ 項目「杜の都の環境をつくる条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
身体障害者福祉モデル都市 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)7月27日 国から「身体障害者福祉モデル都市」第1号に指定される
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「仙台市史 年表」P128
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
広瀬川の清流を守る条例 |
1974年(S49) |
→ 項目「広瀬川の清流を守る条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
仙台市民の消費生活を守る条例 |
1975年(S50) |
→ 項目「仙台市民の消費生活を守る条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
彫刻のあるまちづくり事業 |
1977年(S52) |
→ 項目「彫刻のあるまちづくり事業」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
防災都市宣言 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)、防災都市宣言(前年1978年(S53)6月12日に、宮城県沖地震)
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
緑の団地条例 |
1982年(S57) |
→ 項目「緑の団地条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
福祉ボランティアのまちづくり事業 |
1985年(S60) |
→ 項目「福祉ボランティアのまちづくり事業」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
スパイクタイヤ対策条例(宮城県) |
1986年(S61) |
→ 項目「スパイクタイヤ対策条例」(宮城県)参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
SENDAI光のページェント |
1986年(S61)~ |
→ 項目「SENDAI光のページェント」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
杜の都の風土を育む景観条例 |
1995年(H7) |
→ 項目「杜の都の風土を育む景観条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
環境基本条例 |
1996年(H8) |
→ 項目「環境基本条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
ひとにやさしいまちづくり条例 |
1996年(H8) |
→ 項目「ひとにやさしいまちづくり条例」参照
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農業・農村地帯の変化 |
引用した参考資料 |
<参考>
(1)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658の「第八章 農業」は、戦後~昭和43年頃までの、仙台の農業の変遷につき記述。
・ 内容は、農地解放の経緯(S21年~27年ころ)、他産業との所得格差、兼業化、都市拡大に侵食される農用地、農地の基盤整備事業、畜産の推移、林業の変化、農畜産物流通、中央卸売市場開設、農協合併、戦後開拓地(緊急開拓事業)、仙台市育種園など
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658、P723~762
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農地解放(農地改革) |
1946年(S21)~1952年(S27)頃 |
* 1945年(S20)12月9日、GHQが農地改革を指令
<仙台市内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点の小作地面積は、2591町歩
(2) 1950年(S25)8月時点の小作地面積は、399町歩
(3) 市内田畑総耕地面積に占める小作地割合の変遷
S20年(48.6%)→S24年(12.1%)→S26年(7.2%)→S27年(3.5%)
(4) 農地を買収された地主戸数は、3719戸
(個人地主3490戸、法人地主229)
(在村地主1665戸、不在地主2054戸)
(10町歩以上買収された地主、個人17戸、法人2)
売り渡しを受けた戸数は、4524戸
<宮城県内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点で、自作地40%、小作地59.4%
(2) 改革完了後には、自作地89.5%、小作地10.5%
(3) 自作小作農家の割合変化
小作農 41.6%→3.9%
自作農 19.4%→61.1%
自小作農 15.1%→24.8%
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P606~611、P726
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仙台市の農村・農業(戦後) |
戦後の緊急開拓事業 |
昭和20年代 |
・ 戦争終結にともない、外地からの引揚者や戦地から復員
した人々の受入れのため、未開発の原野や山林に入植させ、開墾開拓に従事させた。
・ 土地が与えられたとはいえ多くは「飢餓開拓」という様相で、作物の育ちの悪い中で耐乏生活を強いられた。
・ 仙台市内(昭和62~63年に編入した秋保町、泉市、宮城町を除く)の開拓組合は12で昭和23~24年に結成、入植戸数は昭和31年現在で計297戸(各開拓組合あたり10戸前後~36戸)
・ 開拓組合名は、青葉山、小松島、八木山、仙台北部、仙台市鶴谷、三神峯、芦ノ口、仙台市向山、坪沼、茂庭、生出増反、鈎取
・ 青葉山開拓地には1945年の23戸から、1965年までに55戸が入植した(『仙台市史』通史編8(現代1)P59)/ その後、東北大学の川内キャンパスの一部となり消滅した。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P656~657
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(1) |
昭和20年終戦~昭和24年頃 |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732>
・ 昭和20年は明治38年以来の凶作で米が大減収、農家は供出よりも自家飯米の確保に忙殺された。
・ 昭和21年には米をはじめ水産業でも収穫が急速に回復、その上、インフレと食料不足にもとづくヤミ取引の横行により生産県である宮城県の農家経済は異常な現金収入に恵まれ、昭和22年、23年と連続して台風被害による米の減収があったとはいえ、全体として農家はヤミ取引による現金収入で潤い、戦後という異常な時期の特色を示していた。
・ 終戦から昭和24年ごろまでの特徴は、戦争による経済の破壊は大きかったが、仙台の経済が農村に依存していたために、農家のインフレ景気に支えられて、都市部の疲弊にもかかわらず相対的には商業を中心に活動が開始されていた。特に金融は農村からの預金の集中があったために、それを貸し出しに回すことができた。
・ 昭和24年のドッジ・ライン以降、デフレへの経済転換の中で、農村の景気が終わりを告げ、そのために経済が沈滞し金融面にも大きく影響した。
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P368>
・ 第二次大戦後の仙台市の経済は、ほとんど休眠の状態に陥ったといえる。産業は沈滞を極め、農業も労働力の絶対的不足で農地は荒れ、食糧事情は窮迫していた。
しかし、都市部の経済がまだ混乱が続く中で、米の生産量は増加し、仙台近郊の農家は、現金収入を増加させていった。 農村景気の出現である。この農村の余剰資金が仙台に集中し、それが産業復興の資金としての役割の一部をになったといえる。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732の「第九章第三節 景気と金融の一 復興のあゆみ」から、農業にかかわる部分のみを抜粋/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(2) |
1950年(S25)~1959年(S34) |
・ 全国的には、昭和25年勃発した朝鮮戦争による特需が、停戦により景気後退が始まる中で、26年は米の大豊作、豊漁、27年も農水産物好調で、仙台の商業も活況、第一次産業の堅調にもっぱら依存しながら、仙台の経済は本格的な復興の段階にはいる。
・ 昭和28年の冷害凶作、29年の米価切下げによるデフレ浸透のあと、30年は空前の豊作で農家経済は一挙に好転(宮城県内の稲作収入は前年比46%増)、ナタネ、麦、繭なども豊作、サンマ中心に水産業の水揚実績は戦前戦後通じて最高を記録、このため工業も食品加工業が活況、他の工業は中央の動向を反映し依然不況ではあったが、東北では工業の比重が低いため他の先進地に比べ不況の程度は少なく、東北の全体経済には影響が少なかった。
・ 仙台のデパートは、29年末の売上から戦後最高を記録、東一番丁や中央通りの商店街の増改築が目立って増え始める
・ 昭和31~32年も、米作3年続きの豊作、水産業はサンマ漁獲減にもかかわらず比較的順調で、消費需要の堅調に支えられ商業中心に伸長を続けた(全国的にはこの時期の景気は重化学工業の発展による消費需要だったが、仙台や東北はそれに直接依存するものではなかった。31年の工業出荷額、全国は前年比23%増、宮城はわずか5%と自然増程度。)
・ 昭和30年代は、食管制度に支えられて、ともかくも安定している米作を中心とする第一次産業へ流れ込んだ資金が、農村を背景とする消費の堅調を通じて第三次産業を媒介にしながら、仙台を中軸とする都市の金融機関に集中する。この資金が都市銀行に集められて、太平洋ベルト地帯などの先進地域における重化学工場の成長資金として利用された。
・ 先進地帯の重化学工業中心の経済成長のために、東北は農業、特にコメを中心とする食糧の供給、次に東北開発の一環として行われた各種自然資源の供給、さらに農村からの労働力の供給、そして金融面では成長資金の供給をも担当することになったのであり、仙台はそれらの供給業務に伴う管理中枢の機能を集積していくことになるわけである。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P732~745の「第九章第三節 景気と金融の二 再建の足取り」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台市の花・木・鳥・虫 |
決定 |
1971年(S46)9月1日 |
市花はハギ、市木はケヤキ、市鳥はカッコウ、市虫はスズムシ
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「仙台市史 年表」P127
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仙台市博物館 |
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1961年(S36)/1986年(S61) |
* 1951年(S26)12月、旧仙台藩主伊達家が、伝来の文化財を市に寄贈、覚書を交わす
* 1961年(S36)6月、仙台城三の丸跡に、第1期工事(鉄筋コンクリート2階建)完成(湿気抜きのため、開館は翌S36年10月10日)/ 落成記念特別展覧会「桃山美術名宝展」
* 1963年(S38)第2期工事、1968年(S43)第3期工事完成
* 1969年(S44)4月、増築完成(新館)
* 1986年(S61)3月1日、新装オープン(新博物館)
<「伊達家寄贈文化財目録」発刊>
・ 古文書古記録類約8000点、美術工芸品類約4000点
・ 1965年(S40)12日、古文書編Ⅰ / 1966年(S41)12月、古文書Ⅱ・記録編 / 1968年(S43)6月、美術工芸編
<収集活動>
・「慶長遣欧使節関係資料」(S41、国の重要文化財指定)など郷土関係資料の収集保存
<関連>
(1) 「魯迅の碑」 1961年(S36)12月4日、仙台市博物館前庭に建立、除幕式(発起は、日中友好協会宮城県連合会) / 「重訂 宮城県郷土史年表」P600では、S36年4月に除幕式、魯迅夫人許広平臨席
(2) 「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」 1978年(S53)5月2日、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建 / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている
(3) 「阿部次郎記念散歩道」 1987年(S62)8月21日完成、仙台市博物館起点に1.28km/哲学者・ 阿部次郎東北大学名誉教授(1883~1959年)を記念する散歩道で、石田名香雄総長時代に、生誕百年を記念して大学と仙台市が協力して4kmほどの周回散策路を整備し、「三太郎の小径」と名付けた
(4) 「島野武市長胸像」 1987年(S62)11月6日、博物館前に、建立
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P193~194、P445~447/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P600、P601、P648/「仙台市史 年表」P122、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P203、P228、P232/「日中友好協会宮城県連合会」HP/「市民の戦後史(仙台市)」P217
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194の写真56(博物館の開館式)、P445の写真128(博物館外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P128(完成した博物館外観、収蔵品の「六十二万石の知行状」、二の丸の襖絵)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(魯迅の碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P150(阿部次郎、同氏句碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(展示会場)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(S44年1月、博物館増築完成した建物)
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仙台市武道館 |
開館 |
1974年(S49)/1998年(H10) |
<錦町公園内>
* 1974年(S49)7月3日、仙台市武道館が錦町に開館
* 1998年(H10)6月、同館閉鎖
<堤町に新武道館>
* 1998年(H10)6月、青葉区堤町1丁目の本山製作所跡地に、「仙台市青葉体育館・武道館」が開館
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「仙台市史 年表」P129/Wikipedia「錦町公園」/Wikipedia「仙台市青葉体育館・仙台市武道館」(2020年2月)
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(錦町の武道館、剣道場)
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仙台市ボランティアセンター |
開設 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)12日、仙台市ボランティアセンター、仙台市戦災復興記念館内に開設
* 1994年(H6)、仙台市福祉プラザへ移転
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「仙台市史 年表」P134
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仙台市ミートプラント |
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<前史>
* 1909年(M42)、仙台市営屠場開設(市内小田原牛小屋丁)、この施設で、仙台食肉組合が屠殺
・処理頭数(明治は年に1600頭、大正は3000~4000頭、昭和初期で5000頭(1日、牛1頭、豚10頭程度)、昭和20年牛馬あわせて、1700頭)
* 1940年(S15)、市直営、職員7人はそのまま市が引き継ぐ / 汚水は、付近の川(藤川)へ調節放流
<戦後>
駐留米兵の需要、牛豚飼育普及で処理数増
* 1949年(S24)~1950年(S25)ころから、爆発的に増加 / S28年1万超、S30年頃から1万2000~1万4000頭
<ミートプラント>
* 1959年(S34)6月1日、仙台市ミートプラント操業開始(市内中田)/エアカーテンで仕切られた屠場で、すべて流れ作業で屠殺・解体 / S34年度は2万頭で、県内の処理頭数の4割、S40年度に5万頭超
* 1967年(S42)12月、活性汚泥浄化槽建設
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P740に、年度別処理頭数一覧表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P737~741
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「目で見る仙台の歴史」P144(牛小屋丁の市営屠場)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P739(市営ミートプラント屠場内部の写真)/「目で見る仙台の歴史」P183(中田のミートプラント外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P106と「新・目で見る仙台の歴史」P19と「仙台市史 特別編4 市民生活」P90に、「S30年代、市営ミートプラント内部」
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仙台市民会館 |
落成 |
1973年(S48) |
* 1972年(S47)1月27日、起工式(西公園、戦後の仙台市公会堂跡地に)
1973年(S48)11月3日、落成式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P24/「仙台市史 年表」P129/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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仙台市民ギャラリー |
開館 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)9月9日、青葉通りの読売仙台ビル内に開館
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「仙台市史 年表」P150
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仙台市民教養センター |
開館 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)4月1日、開館(東二番丁小学校5階)
・ 講習室、会議室、談話室、和室など
・ 利用は、社会教育関連団体
・ 成人学校、青年教室、老壮大学、明治青年大学、教養講座など開催、教育映画・映写機など貸出
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P449~450
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(市民教養センターが入る東二番丁小学校新校舎、講座風景)
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仙台市民図書館 |
西公園に開館/仙台メディアテーク内に移転 |
1962年(S37)/2001年(H13) |
<西公園内>
* 1962年(S37)10月27日、西公園内に開館
* 1966年(S41)3月、移動図書館車「ひろせ」の運行開始(仙台市史 年表) / 図書館から遠隔地域の新市域を巡回(1支所平均3駐車場を選定)
* 1966年(S41)2月25日、ブックモービル「ひろせ号」、巡回図書の貸し出しに初出動(重訂 宮城県郷土史年表)
<分室設置>
* 1978年(S53)8月24日、図書館分室を東北電力ビル内に設置
<仙台メディアテーク内へ>
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転開館
<参考>「仙台市図書館」は、仙台市立の7つの図書館の総称、「仙台市民図書館」は、仙台市青葉区春日町2-1(メディアテーク)にある中央図書館の名称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P447~449/「仙台市史 年表」P122、P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P606、P624 /「続・ 宮城県郷土史年表」P84/Wikipedia「仙台市図書館」(2020年3月)
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「市民の戦後史(仙台市)」P140(市民図書館外観、閲覧室、よい子の図書室)/「市民の戦後史(仙台市)」P187(移動図書館車「ひろせ号」に群がる子ら)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(閲覧室、移動図書館車「ひろせ号」、カラー)
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仙台市民の消費生活を守る条例 |
制定 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)12月24日、仙台市が制定
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「仙台市史 年表」P130
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仙台市民文化センター |
開館 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)5月26日、仙台駅東口に仙台市民文化センター、開館式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P162
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仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
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「仙台市史10 年表」P281
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仙台市役所庁舎 |
市制以前(仙台区役所庁舎) |
1885年(M18)~1926年(T15) |
建物は、勾当台通表小路(1996年現在の市役所の前庭)にあり、平屋建てではあるが重厚な感じの木造で親しまれた
* 1878年(M11)7月22日、旧仙台城下は仙台区となる
* 1885年(M18)10月24日、区役所新庁舎、表小路に完成
* 1889年(M22)4月1日の市制施行後も1926年(T15)まで使用
* 昭和初期に取り壊し(1929年(S4)に完成した3階建て市庁舎建設を前に)
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「仙台市史 年表」P82、P85/「宮城県の百年」P9の掲載写真の「説明文」
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98-056/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116/「新・目で見る仙台の歴史」P121
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仙台市役所庁舎 |
第1代庁舎(木造平屋庁舎) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)4月1日、市制施行
* 同年5月2日、市役所が開庁
庁舎(木造平屋)は仙台区役所時代の建物を転用し、1926年(T15)まで使用
* 1926年(T15)7月、庁舎新築のため、一時、旧仙台地方裁判所跡へ移転
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「仙台あのころこのころ八十八年」(三原良吉監修 S53年刊)の口絵写真の説明文
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98-057
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
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「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
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99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎塔屋の大時計 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)5月10日、仙台市制70周年を記念し、東一番丁商店街から贈られた大時計を白亜の市庁舎塔屋に掲げる(6月8日始動)
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「市民の戦後史(仙台市)」P107/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P288
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201-01/「目で見る仙台の歴史」P197(市制70周年祝賀マンモス時計除幕式)/「市民の戦後史(仙台市)」P107(塔屋に大時計)
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仙台市役所庁舎 |
第3代庁舎 |
1965年(S40) |
第2代庁舎の北側に建てられた(鉄骨鉄筋コンクリート 地上8階・塔屋3階、地下2階、総建坪3万1237㎡、軒高30.4m、塔屋最上部40.25m)
* 1964年(S39)3月24日、新庁舎建設起工式
* 1965年(S40)10月31日、新庁舎が竣工
* 1965年(S40)11月8日、落成式(開扉式)
* 1965年(S40)11月22日、新庁舎で執務開始(マイクロフィルムシステム、電子計算機等導入)
* 1966年(S41)12月1日、庁舎前庭落成(噴水池を中心に岩石や花木を配置)
* 1972年(S47)9月1日、市役所前広場と水道局隣の二日町に市営有料駐車場設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P219~220/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P622、P628/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P13/「市民の戦後史」P175
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40-05、201-02、201-05/「市民の戦後史(仙台市)」P174~175(新庁舎全景、窓口、議場、玄関、ロビー、電算機室、和風中庭)/「新・目で見る仙台の歴史」P200(第3代庁舎と噴水)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図60(H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S45、カラー)
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仙台市役所庁舎 |
第二庁舎 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)5月14日、仙台市役所第2庁舎、上杉1丁目に落成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P177
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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仙台市立病院 |
改築竣工~戦災焼失 |
1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設
* 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工
(鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階
5,211平方メートル 病床数170床)
* 後に増床も行われた
* 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129
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35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」
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仙台市立病院 |
戦後復旧 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、看護婦養成所本館裏に、木造病舎とともに新築 / S23年から、養成再開
* 1947年(S22)10月、復旧し、屋上で市立病院戦災復興式 / 本館および南側地下1階、地上3階が復旧 / ベッド230床、外来患者1日400人以上 / 焼け野原の一角にクリーム色の病院が復興
* 1951年(S26)~1954年(S29)、増築・増床
・ S26年、南側病棟屋上に4階を増築
・ S28年6月、東二番丁に面した本館北側に鉄筋コンクリート5階建を増築
・ S29年7月、さらに北側に、地下1階、地上2階増築
(本館裏の木造病棟取り壊す)
・ S30年3月、前年度完成した上に3~5階部分が完成
* 東二番丁通り拡幅に伴い、玄関が道路拡幅部分にかかる
* 1956年(S31)10月3日、人間ドック開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P583)
* 1960年(S35)、人間ドックを、1週間から2日間に短縮
* 1960年(S35)、救急車購入
* 1963年(S38)6月、救急業務開始
* 1966年(S41)1月10日、救急センター落成(地下1階、地上4階建て、東北初の専門施設、一度に5人の手術可能)、
* 1980年(S55)7月、五橋に移転
* 1980年(S55)9月2日、建物解体始まる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P708~710、P712、P714、P716~717/「仙台年表」P217/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史10 年表」P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P583、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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22-24(東二番丁通りの拡幅部分にはみ出した市民病院玄関)/ 「市民の戦後史(仙台市)」P182(救急病棟外観、手術室)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29)の左上の白いビル/同P40(S33年、空撮、画面上のL字型ビル)/同P60(S38、カラー)/同P86(S41)
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仙台市立病院 |
五橋に新築・移転 |
1980年(S55) |
* 1979年(S54)1月19日、上棟式
* 1980年(S55)3月30日、竣工
* 1980年(S55)7月1日、五橋地区(清水小路)の三島学園移転跡地に、地上10階、地下1階建ての新病院を建設、移転
* 1991年(H3)4月24日、市立病院救急センター開設(鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階、地上7階) / 8,428㎡、病床数36床
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「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P113/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P132/仙台市立病院HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P195(五橋に移転した仙台市立病院、カラー)
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仙台市立病院 |
長町に新築・移転 |
2014年(H26) |
* 2014年(H26)11月1日、長町に移転・開院
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仙台市立病院HP(病院の沿革)/Wikipedia「仙台市立病院」
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仙台市歴史民俗資料館 |
開館 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)11月3日、榴ケ岡の旧歩兵第4連隊跡に残された兵舎を利用して開館(榴ケ岡公園内)
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P102
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「新・目で見る仙台の歴史」P132(仙台市歴史民俗資料館外観、カラー)、「仙台市史 特別編4 市民生活」P232とP193に(外観と展示室、カラー)
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仙台市民金庫/仙台信用金庫 |
改称 |
1932年(S7)/1951年(S26) |
* 1932年(S7)10月3日、仙台市民金庫、創立 / 三越進出問題に触発されての設立(「番丁詳伝」P141)
* 1932年(S7)10月、仙台市民金庫を産業組合法により、定禅寺通・東一番丁突き当りに開業(「重訂 宮城県郷土史年表」P433)
* 1951年(S26)10月、仙台市民金庫を仙台信用金庫と改称
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「番丁詳伝」P141/「重訂 宮城県郷土史年表」P433、P552
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53-61、40-07、201-04、07-01-01、22-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(29~33年頃)の右端
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長町駅(仙台市電) |
開業 |
1936年(S11) |
<仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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緑の団地条例(仙台市) |
指定第1号 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月9日、第1号に茂庭台1丁目~5丁目を指定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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