項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市立病院 |
五橋に新築・移転 |
1980年(S55) |
* 1979年(S54)1月19日、上棟式
* 1980年(S55)3月30日、竣工
* 1980年(S55)7月1日、五橋地区(清水小路)の三島学園移転跡地に、地上10階、地下1階建ての新病院を建設、移転
* 1991年(H3)4月24日、市立病院救急センター開設(鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階、地上7階) / 8,428㎡、病床数36床
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「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P113/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P132/仙台市立病院HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P195(五橋に移転した仙台市立病院、カラー)
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仙台市戦災復興記念館 |
開館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月1日、仙台市戦災復興記念館、大町に開館
* 1982年(S57)7月10日、復興記念館で、「戦争体験を後世に語り継ぐ集会」
* 1985年(S60)12日、館内に仙台市ボランティアセンター開設(2020年現在は、青葉区五橋の仙台市福祉プラザ6階にある)
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財団法人仙台ひと・まち交流財団HP/Wikipedia「仙台市戦災復興記念館」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台市史 年表」P132、P134
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仙台市の工業 |
戦後期 |
1945年(S20)秋~1969年(S44)頃 |
☆「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
「敗戦直後の仙台市の工業は、ゴムや金属などの一部を除いて、代表とさるべき業種が見当たらない。朝鮮戦争の特需ブームは、国内経済の復興に寄与することになったが、工業の立遅れていた仙台地域の経済にとって物価高という悪影響の方が強く現れている。
☆「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697の記載項目
<昭和20年代> P665~
・ 1946年(S21)12月の市内工業統計(分野別の工場数、従業員数、出荷額)
・ 1947年(S22)、1948年(S23)の市内地区別工場分布
・ 1948年(S23)当時の主要工場名一覧
・ 県総合3か年計画
・ 1950年(S25)末、市内の工場(工員規模)、500人以上は専売公社工場のみ、200人以上は6工場、市内540の工場は大部分が工員数人(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705)
・ 1954年(S29)、仙台市工場設置奨励条例(既存工場を助成し、中小工場の新設増設を支援)
<昭和30年代> P675~
・ 1960年(S35)4月、専売公社仙台工場(たばこ)完成
・ 1961年(S36)、仙台市工場誘致条例(P670~)
<新産業都市指定> P675~
・ 新産業都市指定にむけた運動
* 1963年(S38)7月、仙台湾地区が、他の12地区と共に新産業都市に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区、新産業都市建設区域に指定
・ 新産都市予定地区内に進出立地した新規工場一覧(S36年~44年に操業開始)
・ 仙台周辺住宅用地造成計画表(計画年次はS39~S45)
・ 工業用水道計画(S50)
<新都市計画> P684~
* 1966年(S41)3月、新都市計画(建設大臣より認可)
この計画は、新産都市・広域行政など時代に即応し、市に隣接した泉町、宮城町、秋保町の一部もエリアとした、20年後の都市づくり総合構想で、工業面では、新産都市計画が進行するにあたって、仙台バイパス沿いに内陸工業地帯を、苦竹に流通センターを配置 / 工業地域は、長町・郡山の市内南部、小田原など東仙台地区、仙台新港につづく市東部の3か所、準工業地域として仙台バイパス沿いに鉄鋼団地・自動車団地・印刷団地 / 流通センターは、卸売団地(卸商センター)、トラックターミナル、倉庫団地など
・ 1966年(S41)の市内工業統計
・ 1969年(S44)年4月現在の主要工場一覧
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P368/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697、P705/「市民の戦後史(仙台市)」P90
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「目で見る仙台の歴史」P192(小田原折沢の専売公社仙台工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(S30年4月、専売公社仙台工場空撮)/同P201(印刷団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P197(印刷・機械金属・自動車の工業団地空撮、カラー)
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
SENDAI光のページェント |
1986年(S61)~ |
→ 項目「SENDAI光のページェント」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
ひとにやさしいまちづくり条例 |
1996年(H8) |
→ 項目「ひとにやさしいまちづくり条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
スパイクタイヤ対策条例(宮城県) |
1986年(S61) |
→ 項目「スパイクタイヤ対策条例」(宮城県)参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
仙台市民の消費生活を守る条例 |
1975年(S50) |
→ 項目「仙台市民の消費生活を守る条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
健康都市宣言 |
1962年(S37) |
→ 項目「健康都市宣言」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害市民憲章 |
1970年(S45) |
→ 項目「公害市民憲章」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害防止条例 |
1971年(S46) |
→ 項目「公害防止条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
広瀬川の清流を守る条例 |
1974年(S49) |
→ 項目「広瀬川の清流を守る条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
彫刻のあるまちづくり事業 |
1977年(S52) |
→ 項目「彫刻のあるまちづくり事業」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
杜の都の環境をつくる条例 |
1973年(S48) |
→ 項目「杜の都の環境をつくる条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
杜の都の風土を育む景観条例 |
1995年(H7) |
→ 項目「杜の都の風土を育む景観条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
環境基本条例 |
1996年(H8) |
→ 項目「環境基本条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
福祉ボランティアのまちづくり事業 |
1985年(S60) |
→ 項目「福祉ボランティアのまちづくり事業」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
緑の団地条例 |
1982年(S57) |
→ 項目「緑の団地条例」参照
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仙台市電 |
実現しなかった予定路線 |
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「大正十五年版・仙台市全図」(川名文明堂)によれば、市電の予定路線として、定禅寺通り~北鍛冶町~青葉神社下、長丁~宮町~東照宮下などの計画もあったことがわかる
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「番丁詳伝」P118
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仙台市電 |
芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止 |
1928年(S3)4月~1944年(S19)3月 |
・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線)
・ 「芭蕉の辻」が終点
* 1928年(S3)4月8日開業
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
* 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113)
→ <編者注> この日付は間違いと思われる
「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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22-33、53-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰)
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仙台市電 |
仙台駅前~光禅寺 開通 |
1927年(S2)11月 |
・ 0.7キロ
・ 駅から駅前電車通りを北へ向かう路線/環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)11月24日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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99-020/「市民の戦後史(仙台市)」P73(戦後20年代後半?の駅前電車通り)
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仙台市電 |
光禅寺~県庁前 開通 |
1927年(S2)2月 |
・ 0.9キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)2月25日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市電 |
大町1丁目~大学病院 開通 |
1927年(S2)4月 |
・ 1.2キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)4月1日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(2) |
1950年(S25)~1959年(S34) |
・ 全国的には、昭和25年勃発した朝鮮戦争による特需が、停戦により景気後退が始まる中で、26年は米の大豊作、豊漁、27年も農水産物好調で、仙台の商業も活況、第一次産業の堅調にもっぱら依存しながら、仙台の経済は本格的な復興の段階にはいる。
・ 昭和28年の冷害凶作、29年の米価切下げによるデフレ浸透のあと、30年は空前の豊作で農家経済は一挙に好転(宮城県内の稲作収入は前年比46%増)、ナタネ、麦、繭なども豊作、サンマ中心に水産業の水揚実績は戦前戦後通じて最高を記録、このため工業も食品加工業が活況、他の工業は中央の動向を反映し依然不況ではあったが、東北では工業の比重が低いため他の先進地に比べ不況の程度は少なく、東北の全体経済には影響が少なかった。
・ 仙台のデパートは、29年末の売上から戦後最高を記録、東一番丁や中央通りの商店街の増改築が目立って増え始める
・ 昭和31~32年も、米作3年続きの豊作、水産業はサンマ漁獲減にもかかわらず比較的順調で、消費需要の堅調に支えられ商業中心に伸長を続けた(全国的にはこの時期の景気は重化学工業の発展による消費需要だったが、仙台や東北はそれに直接依存するものではなかった。31年の工業出荷額、全国は前年比23%増、宮城はわずか5%と自然増程度。)
・ 昭和30年代は、食管制度に支えられて、ともかくも安定している米作を中心とする第一次産業へ流れ込んだ資金が、農村を背景とする消費の堅調を通じて第三次産業を媒介にしながら、仙台を中軸とする都市の金融機関に集中する。この資金が都市銀行に集められて、太平洋ベルト地帯などの先進地域における重化学工場の成長資金として利用された。
・ 先進地帯の重化学工業中心の経済成長のために、東北は農業、特にコメを中心とする食糧の供給、次に東北開発の一環として行われた各種自然資源の供給、さらに農村からの労働力の供給、そして金融面では成長資金の供給をも担当することになったのであり、仙台はそれらの供給業務に伴う管理中枢の機能を集積していくことになるわけである。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P732~745の「第九章第三節 景気と金融の二 再建の足取り」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台市電 |
北仙台線 開通~廃止 |
1937年(S12)10月~1969年(S44)3月 |
・ 北四番丁~北仙台駅間、1.2キロ
* 1937年(S12)10月26日開通~1969年(S44)3月31日廃止
(「仙台市史 年表」P109では、S12年10月25日に営業開始)
* 1968年(S43)9月、北仙台線廃止決まる
* 1968年(S43)9月11日、北仙台線撤去に反対する学生等が仙台市議会議場に乱入
* 1969年(S44)3月31日、北仙台線廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P109、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P642、P647
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53-90/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P519に北仙台線軌道俯瞰写真/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P166の写真44は、北仙台線最終日の市電/「市民の戦後史(仙台市)」P218(北仙台線の軌道俯瞰、廃止反対して議場に押しかけたヘルメット姿の学生たち)
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仙台市電 |
八幡町線 開通 |
1941年(S16)10日 |
・ 大学病院前~滝前町間、1.6キロ
* 1941年(S16)10月10日、開通
* 1954年(S29)8月1日、八幡町線の複線化工事完成、この日から長町線と八幡町線が直通(それまでは、大学病院前~八幡町折り返し運転)
* 1954年(S29)8月31日、複線開通(1582m)
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P111/「仙台年表」P231~232/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P513
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「市民の戦後史(仙台市)」P73(単線当時の八幡町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P81と「新・目で見る仙台の歴史」P178(八幡線複線化完成で旗行列)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P102(S51、カラー)
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仙台市の農村・農業(戦後) |
戦後の緊急開拓事業 |
昭和20年代 |
・ 戦争終結にともない、外地からの引揚者や戦地から復員
した人々の受入れのため、未開発の原野や山林に入植させ、開墾開拓に従事させた。
・ 土地が与えられたとはいえ多くは「飢餓開拓」という様相で、作物の育ちの悪い中で耐乏生活を強いられた。
・ 仙台市内(昭和62~63年に編入した秋保町、泉市、宮城町を除く)の開拓組合は12で昭和23~24年に結成、入植戸数は昭和31年現在で計297戸(各開拓組合あたり10戸前後~36戸)
・ 開拓組合名は、青葉山、小松島、八木山、仙台北部、仙台市鶴谷、三神峯、芦ノ口、仙台市向山、坪沼、茂庭、生出増反、鈎取
・ 青葉山開拓地には1945年の23戸から、1965年までに55戸が入植した(『仙台市史』通史編8(現代1)P59)/ その後、東北大学の川内キャンパスの一部となり消滅した。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P656~657
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仙台市公会堂(戦後) |
落成~取壊し |
1950年(S25)~1971年(S46) |
・ 戦後、音楽、演劇、集会など仙台市民の文化活動はこの公会堂を中心に展開され、各種の文化団体が育っていった
・ 大ホールは1300席、集会室、展示場などもあり、結婚式にも利用された
* 1946年(S21)10月、西公園緑地内(元常盤町)に建設(収容1500人)(「重訂 宮城県郷土史年表」P514)→<編者注>計画ということか?
* 1949年(S24)11月、着工(「仙台市史10 年表」P322)
* 1950年(S25)12月17日、元常盤町(西公園内)に完成、落成式(大ホール2000人収容、展示室、集会室) / 鉄筋鉄骨コンクリート2階建て、913坪 / 仙台市公民館が同公会堂内に移転
・こけら落としは、仙台市能楽協会が寄付した組み立て式能舞台を使って、仙台藩の流派であった喜多流家元一行による演能で、喜多六平太が「羽衣」を舞った
* 1951年(S26)春、アメリカのピアニスト・メニューヒンが外国人演奏家として戦後最初に来仙し演奏
* 1956年(S31)2月2日、ウィーン少年合唱団公演
* 1957年(S32)11月21日、ベルリン交響楽団公演
* 1971年(S46)、取壊し
* 1973年(S48)、跡地に仙台市民会館完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P514、P546/「仙台市史10 年表」P322、P324/「目で見る復興 まちの今昔」P57/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P202/「目で見る仙台の歴史」P184
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18-07-01、18-07-02/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P274の写真87/「目で見る仙台の歴史」P184(公会堂と、公演したウイーン少年合唱団、ベルリン交響楽団)/「市民の戦後史(仙台市)」P68(公会堂)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(公会堂)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P267
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仙台市電 |
戦後(昭和20年代) |
1945年(S20)~ |
・ 戦時中運転した急行電車廃止、停留所を適正間隔に復活
・ 戦時中、軌道、車両、機械などを酷使した結果、輸送力低下し、使用可能車両は30両
・ S21年2月~、乗降口を一方口に
・ 悪性インフレの進行で料金値上 S21年4月(10銭)からS24年までに7回値上げ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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仙台市電 |
原の町線 開通 |
1948年(S23)5月 |
・ 花京院~原町間、3.3キロ
* 1946年(S21)冬、東六番丁の国鉄専用鉄橋完工し、花京院~榴ヶ岡公園前間、1.6キロ開通
* 1948年(S23)5月5日、榴岡公園~原町終点まで開通し、原の町線(原町線)全線開通(単線)
* 1952年(S27)、花京院の東北本線立体高架橋完成
* 1952年(S27)8月1日、全線複線化完成し、市内循環線への乗り入れ可能(10月の国体開催時の輸送に効果あり)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510、P512/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P115/「番丁詳伝」P115
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P211
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仙台市街自動車 |
設立~市が買収 |
1919年(T8)~1942年(S17) |
伊勢久治郎が設立、市民に「銀バス」の愛称で親しまれた
* 1919年(T8)7月16日、仙台市街自動車、創設(社長 伊勢久治郎、資本金20万円)
* 1919年(T8)11月10日、乗合自動車の営業開始、仙台停車場を起点に市内の南北、および市外は増田、閖上、深沼などまで走った
* 1930年(S5)7月、市内遊覧バスの運行を開始
* 1942年(S17)7月1日、33万円で仙台市に買収され、8月21日から「仙台市営バス」として営業開始
<参照>[写真98-149]は、昭和11年当時の「仙台市交通網図」で、当時のバス路線網も記載
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P86、P187(市電年表)/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P99、P105/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
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53-46、22-10、53-15、98-104、53-121/仙台市交通網図は、98-149/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(パンフレット「仙台遊覧自動車案内」)
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仙台市営地下鉄 |
東西線開業 |
2015年(H27) |
八木山動物公園駅~ 荒井駅間、計13.9km
* 2005年(H17)4月25、地下鉄東西線工事施行が許可
* 2007年(H19)11月、本体工事着工
* 2015年(H27)12月6日、開業
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台市地下鉄」
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仙台市の花・木・鳥・虫 |
決定 |
1971年(S46)9月1日 |
市花はハギ、市木はケヤキ、市鳥はカッコウ、市虫はスズムシ
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「仙台市史 年表」P127
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仙台市役所庁舎 |
市制以前(仙台区役所庁舎) |
1885年(M18)~1926年(T15) |
建物は、勾当台通表小路(1996年現在の市役所の前庭)にあり、平屋建てではあるが重厚な感じの木造で親しまれた
* 1878年(M11)7月22日、旧仙台城下は仙台区となる
* 1885年(M18)10月24日、区役所新庁舎、表小路に完成
* 1889年(M22)4月1日の市制施行後も1926年(T15)まで使用
* 昭和初期に取り壊し(1929年(S4)に完成した3階建て市庁舎建設を前に)
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「仙台市史 年表」P82、P85/「宮城県の百年」P9の掲載写真の「説明文」
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98-056/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116/「新・目で見る仙台の歴史」P121
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仙台市公会堂(戦前) |
設置~空襲焼失 |
1909年(M42)~1945年(S20) |
戦前は、桜ケ岡公園(西公園)にあった
* 1909年(M42)、市が公園内にあった木造の割烹・挹翠館(ゆうすいかん)を買収し仙台市公会堂とした
→ 項目「挹翠館」参照
* 1908年(M41)10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)(「重訂 宮城県郷土史年表」P341)
* 1909年(M42)2月11日、憲法発布20周年記念として桜ケ岡(公園)に公会堂を建立(「宮城百年」毎日新聞社刊 年表)
* 1916年(T5)9月、洋館の新館(ルネッサンス式、木造2階建)が竣工、挹翠館を公会堂本館、洋館を新館とした / マンサード屋根スレート葺、モルタル塗り
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で公会堂本館、新館ともに焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273、P341、P364/「仙台市史 年表」P97/「宮城百年」毎日新聞社刊 年表/「古写真に見る仙台の建築」P44/「仙台あのころこのころ八十八年」P242
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挹翠館は、98-058、98-059/ 新館(洋館)は、99-092-1、99-093-1、53-94、53-99/「いつか見た街・人・暮らし」P14(公会堂講堂内部が写る、在郷軍人大会、大正13年)/「新・目で見る仙台の歴史」P144(カラー、挹翠館と公会堂新館)
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仙台市立病院 |
改築竣工~戦災焼失 |
1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設
* 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工
(鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階
5,211平方メートル 病床数170床)
* 後に増床も行われた
* 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129
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35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」
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仙台市電 |
長町線 延長開通 |
1936年(S11)12月 |
東五番丁~荒町間
1926年(T15)11月25日開通
(仙台駅前~大町1丁目間と同時開通)
荒町~長町間4.2キロ
(S8年~S11年に徐々に延長開通)
1933年(S8)
2月12日、荒町~愛宕橋間
7月5日、愛宕橋~誓願寺通間
12月14日、誓願寺通~舟丁間
1934年(S9)
12月2日、舟丁~河原町間
1935年(S10)
8月21日、河原町~新河原町間
1936年(S11)
1月16日、新河原町~長町北町間
8月6日、長町北町~長町南町間
12月19日、長町南町~長町駅まで開通
12月24日、市電と秋保電車の連絡乗車券発売
* 1954年(S29)8月1日、この日から長町線と八幡町線が直通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P108/「仙台年表」P231
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36-01、201-30/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図84(S11年、土樋付近の市電線路と街並み)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(S8年、長町線土樋カーブでの架線工事)
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仙台市営地下鉄 |
南北線開業 |
1987年(S62) |
泉中央駅~富沢駅間、14.8km
* 1981年(S56)5月7日、起工式
* 1982年(S57)7月13日、地下鉄の市街工事、広瀬通工区から始まる
* 1982年(S57)12月21日、旭ヶ丘トンネル工事で到達式
* 1985年(S60)10月25日、八乙女~台原間が完成
* 1986年(S61)4月、北四番丁以北が完成
* 1987年(S62)2月9日、広瀬通駅に「星空のプロムナード」、除幕式
* 1987年(S62)2月27日、勾当台公園駅に「空間デザイン創造の森」完成
* 1987年(S62)4月16日、地下鉄仙台駅に「デザイン壁」完成
* 1987年(S62)7月14日、仙台市地下鉄開業祝賀式
* 1987年(S62)7月15日、地下鉄南北線、八乙女~富沢間(約14キロ)で開業(東北初の地下鉄)
* 1987年(S62)9月1日、駅の有料駐輪場営業開始(旭ヶ丘、台原、河原町、長町、長町南の各駅)
* 1992年(H4)、泉中央駅まで延伸
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「仙台市史 年表」P132、P135/「続・ 宮城県郷土史年表」P148、P154、P196、P204、P226、P219、P220、P222、P229/仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(走行する仙台地下鉄)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P219(S62、開業式、ミス仙台が花束贈呈、広瀬通駅の星空のプロムナード、カラー)
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仙台市役所庁舎 |
第3代庁舎 |
1965年(S40) |
第2代庁舎の北側に建てられた(鉄骨鉄筋コンクリート 地上8階・塔屋3階、地下2階、総建坪3万1237㎡、軒高30.4m、塔屋最上部40.25m)
* 1964年(S39)3月24日、新庁舎建設起工式
* 1965年(S40)10月31日、新庁舎が竣工
* 1965年(S40)11月8日、落成式(開扉式)
* 1965年(S40)11月22日、新庁舎で執務開始(マイクロフィルムシステム、電子計算機等導入)
* 1966年(S41)12月1日、庁舎前庭落成(噴水池を中心に岩石や花木を配置)
* 1972年(S47)9月1日、市役所前広場と水道局隣の二日町に市営有料駐車場設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P219~220/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P622、P628/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P13/「市民の戦後史」P175
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40-05、201-02、201-05/「市民の戦後史(仙台市)」P174~175(新庁舎全景、窓口、議場、玄関、ロビー、電算機室、和風中庭)/「新・目で見る仙台の歴史」P200(第3代庁舎と噴水)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図60(H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S45、カラー)
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仙台市電 |
モハ1型 導入 |
1926年(T15)~1934年(S9) |
車両モハ1型はT15~S9に導入、このうち7号はS39年10月に廃車
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市電の各型の使用期間は、「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P180~181
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201-36、99-002
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
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「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
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99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
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仙台市(名称変遷) |
名称の変遷(第一大区/仙台区/仙台市) |
1872年(M5)/1878年(M11)/1889年(M22) |
* 1872年(M5)4月、県下に区制が布かれて仙台城下一円が「第一大区」に
* 1878年(M11)7月、郡区町村編成法発布により「仙台区」
* 1889年(M22)4月1日、市制が施行され「仙台市」と改称(この時の範囲は、旧城下町のほぼ全域にあたり、面積17.27平方キロ、戸数1万6800戸、人口8万6352人)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P362
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仙台市制 |
市制施行 |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)4月1日、市制施行
* 1950年(S25)8月25日、仙台市弘報活動ニュースカー「ひばり号」運行開始
* 1959年(S34)6月10日、市制施行70周年記念式典(仙台市公会堂)
* 1969年(S44)6月10日、仙台市市制施行80周年記念式典
* 1987年(S62)11月1日、仙台市が宮城町を編入合併
* 1988年(S63)3月1日、仙台市が泉市と秋保町を編入合併
(仙台市の合併歴は、→項目「市町村合併歴(仙台)」)
* 1988年(S63)9月27日、政令指定都市に伴う区名「青葉・宮城野・若林・太白・泉」と、議会で決議
* 1989年(H1)4月1日、仙台市が、全国11番目の政令指定都市となる
* 1989年(H1)6月10日、市制施行100周年記念式典
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「仙台市史 年表」P86、P126、P135/「仙台市史10 年表」P324/「続・ 宮城県郷土史年表」P231、P240、P252、P259
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「目で見る仙台の歴史」P197(市制施行70周年記念式典)、同P196(市制70周年記念花電車、航空自衛隊による祝賀編隊飛行)/「市民の戦後史(仙台市)」P107(塔屋の大時計、70周年祝賀花電車)
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仙台市役所庁舎 |
第1代庁舎(木造平屋庁舎) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)4月1日、市制施行
* 同年5月2日、市役所が開庁
庁舎(木造平屋)は仙台区役所時代の建物を転用し、1926年(T15)まで使用
* 1926年(T15)7月、庁舎新築のため、一時、旧仙台地方裁判所跡へ移転
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「仙台あのころこのころ八十八年」(三原良吉監修 S53年刊)の口絵写真の説明文
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98-057
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仙台市電 |
開業 / 駅前~大町1丁目、東五番丁~荒町 開通/モータリゼーション進展で利用者減 / 財政悪化/全線廃止 |
1926年(T15)11月/1976年(S51)3月 |
* 1925年(T14)11月、起工
* 1926年(T15)11月25日、仙台市電が初開通
(仙台駅前~大町1丁目間2.1キロ、東五番丁~荒町間1.2キロ)
* 同日、西公園で開通記念式典
・ 「開業日、市中は飾り塔、造花、赤ちょうちん、紅白幕、小旗に彩られ、東一番丁では花トンネルをつくった。 また、開通の日、午前中だけで1万2000人が乗ったと記録されている」(「番丁詳伝」P118)
開業時にすでに、始発駅の仙台駅のやや北にある、名掛丁角まで軌道が敷かれている(「昭和史とともに 仙台市電-その50年」P166の市電系統図)
********************
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P216>
・ 市電利用者:昭和39年をピークに減少、市電財政悪化しはじめる / 対策として、大型ボディー車導入や1966年(S41)から一部をワンマン化 / 郊外に住宅団地増え周辺部から流入する自家用車で、市電並走部で交通渋滞 / 1976年(S51)3月、市電全線廃止
仙台市電(各路線)の開通日や廃止日は、
・「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189と
・「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表で、わかる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P364/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表/「番丁詳伝」P118/「仙台市史 特別編4 市民生活」P216
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22-48、/ 開通記念式典は、98-103/開業時の市電系統図は、98-101/「目で見る仙台の歴史」P148と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「西公園における開通式、花電車」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P207(開通式、記念絵葉書の袋、一番電車が片平丁車庫を出発、開通記念無料乗車券)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P206~213(市電関連写真)
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仙台市電 |
環状線(循環線)完成 |
1928年(S3)3月 |
* 1928年(S3)3月28日、県庁前~大学病院間(1.7キロ)が開通、これで環状線(循環線)全線(6キロ)が完成
・ 仙台駅前~錦町~県庁市役所前~北四番丁~西公園~南町通~仙台駅前(停留所名は、1976年市電廃止時の名称)
・ 西公園において開通式挙行
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P104
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201-01、201-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(循環線が完成したころの乗り換え乗車券)/同211(S49年、仙台駅前停留所の市電、カラー)
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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仙台市民金庫/仙台信用金庫 |
改称 |
1932年(S7)/1951年(S26) |
* 1932年(S7)10月3日、仙台市民金庫、創立 / 三越進出問題に触発されての設立(「番丁詳伝」P141)
* 1932年(S7)10月、仙台市民金庫を産業組合法により、定禅寺通・東一番丁突き当りに開業(「重訂 宮城県郷土史年表」P433)
* 1951年(S26)10月、仙台市民金庫を仙台信用金庫と改称
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「番丁詳伝」P141/「重訂 宮城県郷土史年表」P433、P552
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53-61、40-07、201-04、07-01-01、22-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(29~33年頃)の右端
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仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
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「仙台市史10 年表」P281
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園 開園 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)、失業対策事業で、広瀬川沿いの評定河原が埋め立てられ、北半分は東北帝国大学のグラウンドとなり、南隅は動物園用地となった
* 1936年(S11)4月1日、仙台市動物園が評定河原埋立地に開園(当時、東京以北で唯一の動物園で、昭和12年12月までの入場者は31万人)
・ 入園料(昭和11年) 大人15銭、軍人10銭、小人5銭(昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64)
・ 坪数8150坪、収容動物150種500点、初代園長漆沢忠雄(「重訂 宮城県郷土史年表」)
・ 象・虎・ヒョウ・白熊など35種100頭を、閉園した東京浅草の花屋敷動物園から譲り受け、それに加えて200余頭を購入した(「仙台はじめて物語」)
・ 3月29日に収容動物到着、4月1日開園、165種471点(仙台市史10 年表)
・ 入場者、昭和11年(4月~12月)に31万人
・ 入場者 昭和12年17万人、13年20万人、14年26万人と戦乱(日中戦争)が拡大しても、観客は減るどころか年々増えていった(「戦争のころ 仙台、宮城」P40)
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「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 年表」P108/「仙台はじめて物語」P104~105 /「仙台市史10 年表」P288/「重訂 宮城県郷土史年表」P451/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「市史せんだい Vol2」P15/昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P40
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53-119/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204(仙台市動物園開園記念観覧券と市電乗車券)
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