満州事変での第二師団 | 「宮城県史7」P534~565(満州事変)、 同書の「仙台関係部隊年表」のP700~701に詳述されている | 昭和6年2月~3月、満州駐箚を命ぜられ仙台など各屯営を出発(司令部、歩4、歩29、歩16、歩30、騎兵2の各連隊、野砲兵2、工兵2の各大隊) |
昭和6年9月18日、満州事変勃発 /以降、満州各地で戦闘し長春、吉林、チチハルなどを占領、翌7年には錦州、ハルビン、方正などを占領 | ||
昭和7年12月30日、現地を出発し帰還の途に就く / 昭和8年1月7日~13日、各屯営に帰還 | ||
この間の昭和6年10月12日、戦死者の遺骨が仙台に到着、当日追廻練兵場に祭壇を設け慰霊祭を挙行 | ||
<多門師団凱旋> (昭和8年1月1日~7日の「河北新報」記事より抜粋) | ||
1日朝刊 | 京城駅に降立つ | 多門師団長以下 31日午前9時40分京城駅着 |
3日朝刊 | 朝鮮の熱狂的歓迎 | 京城に到着・・・京城放送局のマイクロフォンによって朝鮮全道にステートメントを放送した |
涙ぐまし夜中の児童ら 多門将軍以下も寝もやらず応待 安東から京城に至る沿線各駅の歓迎ぶりは・・・日本児童と朝鮮児童が夜中をいとわず歓迎にでている有様は涙ぐましい程である。ことに通過駅の如きは寒夜の中に列車を待ちつくして将軍の顔もみられない無情に過ぎゆく列車にバンザイを浴びせるだけだ。多門将軍以下幕僚はその熱誠に感激して、寝台につかずこの歓迎に応待した。
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似島到着 | 多門師団 最初の凱旋部隊似島到着 2日午後4時、似島に投錨 | |
4日朝刊 | 凱旋門の装ひ成る | 完成した凱旋門の写真(仙台停車場前、大町、新伝馬町、大橋、名掛丁X(エックス)道路、遊郭の凱旋門) 名掛丁新伝馬町の入り口とⅩ道路上り口、追廻に通ずる工兵隊前は請負業者の赤誠を見せたモダンアーチ、北一番丁遊郭も歓迎門を押し立てて、この一角には喜びがあふれている。かくて大仙台の商取引は更生の転換期に入る期待も大きく、一切合財(さい)が狂喜乱舞をはじめた。
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凱旋歌歌詞 三十六万部師団管下に配布済 | 本社提供、土井晩翠氏作詞陸軍戸山学校軍楽隊作曲の「第二師団凱旋歌」は・・・仙台の4万部を筆頭に全県下に25万部、福島新潟の二県は11万部余。 宇品上陸と共にその歌詞を凱旋兵らに知らしむべく・・・元日から毎日2500部宛を宇品に送って、各隊将士の上陸毎にこれを配布することになった。 (この他、小中学校、師団司令部3500部、仙台鉄道局、同運輸事務所、県庁、貯金局、在郷軍人分会などへの配布部数が記載されている) | |
5日朝刊 | 広島からラジオ実況 | 5日午前9時5分、広島より「第二師団凱旋状況」宇品陸軍運輸部構内より中継 |
6日夕刊 | 仙台凱旋 ラジオ放送 | NHK仙台局、7日の関連放送予定
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7日朝刊 | 凱旋部隊の仙台到着予定 (1月7日~9日、同13日) |
第二師団の仙台帰還(日程と予定人員数)
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戦死・戦傷者数 | 「多門将軍と車中に語る」(特派員) 二師団は事変以来、300名の戦没者、700余名の戦傷者並凍傷患者 |