【関連資料】D-13-01 天守台
昭忠碑 (1)明治35年11月建立。東日本大震災(2011年3月11日)で頭頂部の金鵄像が落下破損したが、修復されて2017年に「昭忠碑」前の基台に据え付けられた。 / (2)【青葉城資料展示館のHP(2017年現在)】 「昭忠碑は、明治7年(1874)佐賀の乱以来、西南戦争、日清戦争などに従軍した陸軍第2師団所属の戦没者に対する慰霊顕彰碑として明治35年(1902)11月昭忠会により建立された。 塔頂部に据えられたブロンズ像は、日本書紀において神武天皇の軍を勝利に導いたとされる金の鵄(トビ)をモチーフとしている。この巨大な金鵄像は東京にて分割鋳造後、鉄道を用いて仙台まで輸送し当地にて組み立てられた。又塔中央に掲げられた「昭忠」の銘板は小松宮彰仁親王の揮毫によるものである。東京美術学校(現・東京芸術大学)の河邊正夫(全体の設計)、沼田一雅(金鵄像の設計)、桜岡三四郎、津田信夫(金鵄像の鋳造)ら後に各分野を牽引することになる若き芸術家たちの手によるもので、国内ブロンズ彫刻の最初期の作品にして比類なき大傑作。平成27年(2015)7月8日金鵄ブロンズ像部分修復のため(有)ブロンズスタジオ(東京都西多摩郡瑞穂町)に輸送。平成29年3月に基壇上に再設置される予定。 金鵄像は、両翼約6.7メートルで重量約4トン、材質はブロンズ。塔の高さは約20メートルで材質は花崗岩(内部はレンガ)。」 / (3)【「重訂 宮城県郷土史年表」P326】「明治35年11月23日、旧青葉城本丸に昭忠碑を建設す(碑はゴシック式高塔、陸軍大将西寛二郎の意匠にして、東京美術学校に於いて鋳造、工費総額二万四千三十三円余」「昭忠碑の構造は、土台高11尺(花崗岩)、中枢高33尺(花崗岩)、金鵄高さ3尺幅13尺(唐銅)、総高さ60尺」 / (4) 太平洋戦争中の金属回収では、同じ天守台にあった政宗騎馬像は供出されたが、この金鵄は対象にならなかった(瀬川満夫「ふるさとの昭和史」P35) / 【逸見英夫・瀬川満夫「ふるさとの昭和史 新仙台」案内記P35】 「明治34年、第二師団と第八師団(弘前)合同の陸軍大演習が宮城県下であり、昭忠標は、その演習の際に明治天皇から100円を下賜され建てられた」 「太平洋戦争中の金属回収では、同じ天守台にあった政宗騎馬像は供出されたが、この金鵄は対象にならなかった」 /
政宗卿騎馬像 (1)騎乗し、甲冑姿の伊達政宗卿騎馬像。 伊達政宗没後300年を記念し、宮城県青年団が昭和10年5月14日に天守台に建立。 / (2)東京から天守台までトラクターで運搬、仙台市内では青年団員たちがともにパレード(分類 F-20-02の写真参照)、大手門を通過後は天守台まで青年たちが坂道を引っ張り上げた / (3)昭和19年1月22日、戦時中の金属回収で供出。 戦後、供出された騎馬像の頭部が発見され、仙台市博物館の庭に置かれている(1995年現在) / (4)戦後の昭和28年10月に、天守台には政宗の平服像(白いセメント製)が設置されたが、昭和39年、騎馬像が元の原型から鋳造、復元されて再度元の場所に建立された / (5)昭和39年9月、平服像は岩出山城址に移された /
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