東北本線の仙台駅は、明治20年12月15日の鉄道開通(当時は私鉄の日本鉄道で、塩釜まで開通)にあわせ開業した。 停車場が市の中心部近くにできるよう、有力商人たちが鉄道会社に寄付し働きかけた。
明治27年には木造洋風(一部2階建)の2代目駅舎が完成、昭和はじめには駅舎正面にシンボルの大時計もついて、昭和20年7月の仙台空襲で焼失するまで仙台の顔として市民に親しまれた。
駅の北側に隣接して、大正14年6月には宮城電気鉄道(のちの国鉄仙石線)仙台駅が開業、大正15年11月には仙台駅前始発の市電開通、昭和4年仙山線の仙台・愛子間開通などにより、仙台駅は市内外を結ぶ交通ターミナルとしてますます重要な存在となった。
明治半ば以降、駅前には旅館やホテル、飲食店、土産物店、運送業などが進出したが、駅の存在は市内商店街の消長にも影響を与えた。
藩政時代から市内の代表的商人町だった国分町から次第に、駅により近い大町、東一番丁や駅に通じる道筋の名掛丁などに中心が移り、街の勢力図を塗り替えていった。
戦後は大空襲で、駅前から西公園まで見通せる一面の焼け野原が広がる中、急増バラック建ての3代目駅舎が出来たが、その北隣には広い芝生の前庭をもつ占領軍(米軍)のRTO(鉄道輸送指令部)の瀟洒な建物ができ、駅前広場には進駐軍兵士相手の人力車が並びそれらは敗戦日本を象徴する光景だった。
仙台駅では男女学生たちが、着の身着のままで帰国した外地引揚者が下車または通過するたびに湯茶で接待したり、健康診断や宿の相談にのるなどの活動を4年間続けた。
戦後の混乱期から復興へ向かい始めた昭和24年7月に木造2階建の第4代駅舎が完成、以後23年間にわたり戦後仙台のシンボルとなった。
戦後の焼け跡を貫いて駅前から大橋まで開通した青葉通りのケヤキ並木が大きく育ち杜の都の緑を取り戻した仙台に、昭和57年新幹線駅が開業し、駅舎はあらたな仙台の顔となった。
仙台駅界隈の地図・商店配置図など(戦前・戦後)
戦前の配置図は、「写真分類C-07-01」に6枚(明治34年~昭和10年代)
戦後の配置図は、「写真分類C-07-02」に1枚(平成2年)あるが、
その一覧表は → 関連資料 C-07(仙台駅と駅前広場・商店街)